日々_駅からの途中下車と会議

皆さん、駅の途中下車ってやったことありますか?

目的地からの帰り道の途中の駅で、ふと降りたことあります?

僕はこれがわりと好きで、よく見る駅だけど、降りたことがない駅に降りて、いろいろと街を探索します。なんだったら適当なホテルに一泊します。

携帯を見ずに、知らない土地を感覚を頼りに歩き、この道の先はどうなっているんだろう。このビルはなんだろう?古い銭湯とか見つけたらラッキー、豆腐屋とか見つけたが僥倖とか、そんな体験です。

たぶんだけど、ここまで読んだ人は、それっておもしろのだろうか?とか途中下車の意味が知りたくなっているはずです。

途中下車にどんな意味があるのか?どんな効能があるのか。と。

先に言っておくと、この行為に意味も無ければ、効能も特にありません。何だったら面白さもあまりありません。

楽しいのかと言われると、楽しいよりも疲れ。行き止まりかよー。ただの住宅街じゃないか。みたいな体験が続くのって、わりと疲れます。

なんとなく降りてみたいという好奇心があって、降りてみた。という行為、降りたという結果があるだけで、意味はありません。(疲れはある)

でもこれって、何かしたくなるんですよね。

感度が上がっているのかも分からないし、ワクワクするってわけでもないんだけど、知らないものがあったという実感があって、この土地では誰も自分のことを知らないのだ。という感覚の中を歩くのがとても好きでやっています。

ここで仕事の話をします。

仕事をしていると、どうしても意思決定や思考が、ロジカルになり、何らかの話し合いは出来るだけ定量化し、決定の多くを整合性をもとに決断していきます。

日々、KPIを追い求め、非効率が悪とされ、無駄が排除されます。

毎日の膨大な仕事の量から、なかなか自分の仕事を振り返る時間はなく、無駄とされる多くのものは社内から排除されていきます。

途中下車にも同じことが言えます。早く家に帰るという目的からすると途中下車をするのは無駄です。もし家でのタスクがあるならこんなことをしているのは無駄でしかなく、早く家に帰って、掃除をし、洗い物をし、洗濯をし、料理を作るべきです。ナスがヘタってきたから、汁物に投下せねば。の世界です。

でも途中下車は娯楽(のようなもの)です無駄だからやめるとはなりません。

仕事は無駄を排除し、娯楽は無駄を排除しない。

本当にそんな風に考え方を毎日のシーンによって分けられるのでしょうか。

僕たちは、仕事の自分と、プライベートの自分の心がきちんと分かれているわけではありません。仕事井上、プライベート井上ではなく、井上の中に仕事の自分が居て、プライベートの自分が居るわけです。途中下車しながら、ふと仕事のことを考えたり、仕事をしながら、冷蔵庫の備蓄野菜のことを考えたりもします。

自分の思考は環境の影響を受けます。インプットとアウトプットの積み重ねから思考は形成されます。日々の無駄排除フレームワークからは、プライベートもなかなか抜けられません。

気づけば、家事はシステマティックに、会話は必要最低限に、娯楽はコスパで測ってたりします。

では仕事の無駄とはなんでしょう。

雑談であり、休憩であり、会議です。

なんだったら一緒に御飯を食べる、なにか一緒にゲームをする。そんなことの多くが無駄とされます。

ただ無駄の会話のなかで「そういえばさ、あの仕事面白かったよなー」みたいなゆるい感じで会話がスタートします。

そしてそれを受けて誰かが「郵便ポストになったみたいな気分だったわ」とかよくわからないことを言い出し、なにかが始まります。

そんな無駄を社内にセットする。みんなが自律的に無駄を作る。そういう偶発的な何かを仕事で仕込んでみたいなあと思う最近です。

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