雑感-合理性

僕らは日々「合理性」と「効率性」という軸で物事を判断している。
論理は破綻してないか?効率的なのか?筋道を外していないのか?もっと早くできないか?もっと安くできないのか?という点から思考する。

ただこれはどこまで突き詰めるべき考えなのか?
というと悩ましい。
そんなことでも。

 

仕事をして、何か判断することがあると、
もっと早く出来る方法はないのか?もっと簡単にできる方法はないのか?
もっと安く、もっともっと。というフレームワークにてジャッジしていく。
いちいち悩まなくてもいいし、これらは凄く優れたフレームワークだ。

ただそのフレームワークは仕事だけではなく生活にも波及していく。日々の生活で、これは時間の無駄だよな、金がもったいないな。意味わからんな。と気づけば、いくつもの日々の無駄は削ぎ落とされ、ライフワークも凄く整合性のとれたものになる。

 

そしてそれを突き詰めた人-すべての無駄が削がれた人-は話すと、すぐに分かる。
その人が考える世界は、全てが整合性が取れ、破綻がなく、全ては構築性というフレームにてすっぽりと収まっていると考えてるように見える。
そのため破綻があると、それが凄く気になり、その破綻を修正する。ときに修正できないときは、それを攻撃し潰し、たまにそれらを強く憎む。

またそういう人は趣味をあまり持たない。
音楽もあまり聞かない(聞いても同じものばかり聞いてる)、洋服もそこまで興味がなく(安く買えるかどうか)、食べ物も脳を直撃するようなモノが好みだ。焼肉であったりスイーツであったり、油と糖質の攻撃力を持った食べ物を好む。娯楽でも新たなチャレンジはほとんどしない。常に同じ事をしてる。なぜならそれらは効率が良くないからだ。

そしてそういう人は仕事の世界では凄く重宝される。
共通の言語があるので-合理性と効率性-話はすぐに理解され実行される。
全ては実際的に着実に遂行される。
ただそこからずれた、もう少し生活的な話や人生観(というと大げさなんだけど、ナニしてるのが楽しいの?みたいな話でも)についてに話が及ぶと、途端に話の流れは澱みはじめ、舌はオイルの切れた自転車のようにぎこちなく、脳は数目盛り分、回転を緩めはじめる。

それでも我慢強く話を続けていくと、僕自身が混乱してくる、次第に方向感覚を失っていく、あれ、俺なんの話をしてるんだっけ?と一瞬自分がどこに居るのかわからなくなる。
その人の言いたいことも考えてることも分かるのだけど、
どこかで聞いたことのある話をずっと繰り返されると、現実世界なのか、非現実なのかその境界線が徐々に判定がつかなくなる。

途中で話を適当に切り上げて、また仕事の話に戻し、
「ひとつ、よろしく」と挨拶して話を終えることになる。

仕事での付き合いのみなので、別に共通言語があれば仕事は実際に遂行され、何ら問題ないのだけど、僕としては、どこかで聞いたことある話よりも、
何か不恰好で、色んな隙はあるのだけど、でもピチピチとした生の話を聞きたい。

 

 

僕の知り合いで生きた話を得意とする人がいる。本人は何ら気づいてないのだけど、聞いててすごく楽しい。
崇高な目標があるわけでもないし、本もろくに読まないし、日々子育てと看護師の仕事で、たぶん凄いことをやったりというわけではないのだけど、
全ての話が生き生きとしてて、全てが自発的で、行動は、その人軸で一貫してる。そして僕も「ならこんなとき、どうすんの?」と色々な角度から質問し、気づけば朝になってたみたいなこともあった(旦那は酔いつぶれる)
僕はそういう話が好きだ。
自発的で自然な斬新さだったり、ゴリゴリと前にのめり込めるようなファンキーさだったり、その人固有のダイナミックな話が聞きたい。

そして可能であれば、僕もそういう年のとり方をしたいと思う。
日々、僕らは合理性と効率性という強力な武器を使ってるのだけど、その軸からずれた無駄なこともたくさんする必要があるはずだ。
だから僕らは飽きもせずに毎日音楽を聞くし、非効率なのに料理もするし、1000Pを超える本を呼んだりし、こんなに交通の手段が発達してるのに一日10キロも走ったり、
無駄に高い遊びをやったりするんだろう。
それらは誰かにバカにされたり、アホだなみたいな顔され呆れられても、多分必要なものだと思うのだ。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。