雑感-安藤裕子

音楽文章が書けないとあったが、ありましたよと。安藤裕子。
やっぱりどう考えても恥ずかしいな。とはいえ下書き更新祭りだからこそアップできることもあるはず!というわけで。以下。

日々聞いてるというわけじゃないのだけど、
長時間の移動があった折に思い出したように安藤裕子を聞いてる。
ここは安藤にて。という感じ。

安藤裕子の音楽を聞いて思うのは、その固有性は世界観の作り方であり、それは自分と相手との距離のとり方にあるように思う。ちょっと変わった距離の取り方をしてるなと思うことが多い。
普通であれば自分の考えや自分の伝えたい何か。だったりすると思うのだけど、彼女は大切なアナタが居る世界であり、居る空気であり、居た時間を大切にする世界観の提示だ。もしくはその関係性においての、伝えたいことといえるかもしれない。大切なアナタとの関係により世界は成り立ち、大切なあなたによって彩られた世
界に安藤は生きてる。

例えばこんな感じで。
「あなたの素敵な指であったり、ありがとうと手を振ってくれたり、
きっと次の世界でもあなたのもとに生まれおちてこれるよと笑ったりして」

そうして安藤はその関係性によって世界に自分が居てもいい場所を見つけようとしてる。もしくはそれを守ろうと足掻いてるような。
そんな世界を作ろうとバタバタと積み重ねてきたといえるのかもしれない。

それらを聞いてて、際どい世界との渡り方のようにも思うことがあれば、
もしかすると、
「なんて不安定な生き方なんだ」と。思われるかもしれない。

でも安藤裕子は
「仕方ないじゃないか。それしか選びようがなかったのだから。」という解を出してるようにも見える。

安藤の根底に流れてるもの、それはネガティブな思いだ。
ネガティブが抽象的にすぎるなら、それは嫌悪だろうと思う。
自分に対する嫌悪であり、社会への嫌悪であり、世界への嫌悪だ。
僕は今までのアルバムをクロノロジカルに聞いて、そう感じた。
自信もなく、世界は自分に対し閉じられ、受け入れてくれない恐怖が随所にある。
そして自分への嫌悪、世界への嫌悪を埋めたもの、それは大切なアナタとの関係
であり、アナタとの世界であった。
そういう風に安藤は自分の居場所を作っていた。

それは誰かに笑われたとしても、実直な生き方のように思う。
なんとか必死で生きようという泥臭い試みに見える。

ただそう思うと同時に、そういった世界との渡り合い方は、
根源的な問いを回避できてない。根を張った強い恐怖は、大切なアナタとの世界だけで回避するには、あまりにも緊密であり巨大に思う。

そのような問いからの回避はいつかのタイミングで、もっと強い説明を求められる執拗に。何度も。いろんな聞き方で。
忘れたときに、気づいたときに、その問いは戸口で息を潜めてる。
世界はそのような成り立ちで出来ており、そこにエクスキューズは通用しない。
切迫した問いであり、アナタとの関係性以外の何かを自分自身にその回答を作らなくてはならない。
僕らもそうした安藤から提示された世界に、ときに浸からせてもらい、ときに守られたりするのだけど、そこにずっと居るわけには行かないのだ。そういった関係性だけでは生きられない世界がある。もしくは、それが年を取るということなのかもしれない。

ただそういった次の模索は安藤一人の仕事ではなくなったのかもしれない。
でも僕達聞き手はそこに安易な関係を求めるのは短絡にすぎるというものだ。
安藤がこれからどっちの依り方をするのか分からない。
でもネガティブを内包した生き方はJAPANESE POPにその萌芽は見て取れてはいる、

特に「はじまりの唄」がひとつのはじまりであり終点である。
やっぱりその在り方に僕らは心を惹かれるのだ。


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