雑感-クラシックへの挑戦

それなりに人生を生きてきて、年をとることで残念に思うことは、
体験するものごとへの感動が日々落ちていくことだ。

新しく体験したことはすぐパターン化されカテゴライズされ、感動の目盛りがひとつ減った状態で惰性とは言わないけどそれなりに割り引かれた感動になっていく。それならまだよくて、何度も繰り返したモノは、感動どころかコンテンツ視聴の途中で好奇心が途切れ、放置し、体験することを諦めてしまう。
感覚を感じるより情報の咀嚼が先行し、コンテンツの認識よりコンテンツの判断が先行する。困った。

それについては強い危機意識があり、僕としては常に新たな刺激があるインプットの取り込みの幅を広く取らないと困ったことになるなという思いがあった。

そこで自分で取り込みたい刺激系のコンテンツの大きな未開が「クラシック」である。

ただそうは言ってもクラシックのどうしても敷居が高い。どこから手をつければ良いのか分からないところに、小澤征爾さんと村上さんの対談を読んだ。

これはクラシックの広大さを知るの観点で、とても良い代物で、クラシックがかくも深い鉱脈であり、自分の知らない観点というのに気づく。

具体的に書く。まずスコア(楽譜)を読むという行為について。
僕はスコアがどのような成り立ちのものかわかっておらず、これがどのような作業であり、どのような試みなのかは知らない。
それは小説を読む込むような作業に近いのか?示唆に富んだ暗号の解読に近いのか。本著を読むに、指揮者が解釈のスタンスを強く保つこと、作曲家の背景と作曲家の方向性を理解すること、その全体の仮説に基づいて、音楽としての整合性を全体で取るというバランスを取る作業が求められているのだろうb。

小澤さんが解釈したことを、言葉に落とし、音楽に落とす。そしてそれをまわりに伝える。オーケストラとのやり取りを通じ、何度も伝える。
言語と音楽での表現には、大きな壁がある、プロが集まるオーケストラだからこそ高い文脈の理解力と技量、そして作曲家の理解があるからこそ、非常に高いレベルで、かつ非常に細かいところのやり取りが続く。それらのやり取りを読んで、僕は実感までは出来ないが、それが非常に難易度が高い行為であることは、理解ができる。
そして指揮者の解釈が全体に伝わり、それが上手く音楽として立ち上がれば、良き音楽になり過去の作曲家からのメッセージが立ち上がるわけだ。

本著を読んで、指揮者が真摯に音楽と向き合い、真摯な態度にも心打たれた。ただアートの人ではなく、どちらかというと、指揮者は作曲家の媒介者であり、オーケストラのディレクションをする人なのだろう。

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