ヒマ-願い

今の願いはただひとつ「文章がうまくなりたい」だ。
毎日、自分の文章の下手さにグッタリしており、とんと上達もしないし、成長の兆しも見えない。
毎日大量のメールを書き、毎週だれかの文章チェックをしたり、毎月何十冊も本を読んでるが文章力が一向に上達しない。
上達や前進のしるしでもあれば、手応えのひとつもあるが、徐々に後退してるような気すらしてる。

ってなもんで、文章について考えてみようかなと。
以下にて。

 

書くのに手こずる文章は自分の想いや考えを移し替える文章だ。
さすがに自分のキモチを余すところ無く文章というフレームに移し変えたいなんてことは思ってはいないのだけど-それはプロでも難しいだろうし、そこまで書きこむ時間はない-技術が未熟でもいいし、どうしようもない文章構造なんかでもいいんだけど、「自分の考えに間違いありません」と強く公言できるような文章が書きたい。

これがなかなか難しい。
僕としては書きたいことがあると、パソコンの前に座り、Windowsのnotepadを呼び出し、今から自分の考えをそっくりメモ帳に移し替え、真っ白なメモ帳に自分の考えがアリアリと浮かびあがってくることを想像しワクワクする。そして文章のはじまりを書くためにはじめのキーをタイプする。「何かを人に伝えるというのは一種の・・・」と書き出す、何らかの仮説を立てて、その仮説を通じて、自分の想いをありていに書きだそうと試みる。
真っ白なメモ帳にノビノビと文章を書いて、そこに自分の考えがありありと浮かび、満足してる自分が想像できる。今回はいけると確信する。
ただ書きだして10分も立たないうちに、なんだか雲行きが怪しくなる。仮説から推論を導びきだし、自分の考えを書き込んでみるも、うまくタイピングが進んでいかない。闊達さや活力が失われ手の動きが澱みはじめ、タイプするキーを迷い始める。次第にタイプが遅れがちになり、天井に目をやる回数が増えてくる。「仮説が間違ってたのかもしれない」という気がしてくる。そもそも仮説から破綻してるのではあるまいかと。論にムリがあったのではあるまいかと。
その疑いを持って文章を見直すと、どうしようもない文章に思えてくる。自分をよく見せたいだけの文章のように思える。何ら自分の感情とは関係ないところで成立してるような文章のように。
その思いがある一定に達すると僕は「Ctrl」と「A」を押して「Delete」を押す。数秒でもとの真っ白なnotepadにもどる。

これが一連の動きである。

ただ稀に完成まで辿りつけて、文章をアップしたり、アップせずに下書きに保存したりするのだけど(振れ幅があるとか尖らせた文章や誰かが傷つく可能性が万が一にもある文章はアップしない)
ただ完成すれば満足するのかというとそうではなく、後日完成した文章を見て、その出来を改めて、落ち着いた精神状態を眺めてしまうと落ち込むことがほとんどだ。何でこんな文章になったのだろうと。そしてそれらを見ながら、今回はダメだったけど次こそは良い文章を書こうと思いを持ちはじめる。そして書きたい内容があれば、また冒頭がスタートされる。

でも改めて、いまこの文章を書いて、なぜこんな思いをして、それも大きく時間を投下して文章を書くのだろう。と。
手応えを感じる回数の10倍ぐらいジレンマや自分の出来なさを痛感してしまうのになぜか。

書ききれなかったときも、書ききれたときも、同じく、自分の考えを文章になおそうとする行為を通じて、自分の考えを再認識することになるからのように思う。
自分の考えを文章にすることで、あーこれはちょっと行き過ぎだな。とか、まだ自分でも考えがまとまってなかったのかとか、この考えにあれが足らないな。といった欠点や欠陥が浮かび上がってくる。

多分だけど書くという行為を通じて、ようやく自分が何を考えてて何がわかってないか気づけるから文書を書いてるのかもしれない。
自分が何を考えてるかわからないから文章を書いてる。って何だか危ない人のように思うのだけど、文章がうまくなりたいと願いつつ、本当にうまくなったら全てを理解したときかもと、一生上手くならない可能性を秘めた願いなんだけど、まあどこにもたどり着かないとしても、多分明日も明後日も飽きずに、また何かを思いついたらせっせと文章を立ち上げようとするのだと思う。失望が待っているのにも関わらずせっせと汗水垂らして文章をこしらえる。うまくなることが無い行為。繰り返し。リピート。
酷く要領の悪い作業のように思えるし、とてもバカのように思えるが、まあほかに方法も思いつかないし、まあ飽きるまで続けるつもりだ。
文章がうまくならないとしても、思考のバージョンアップの先に面白い思考に辿りつくことを願って。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。