雑感-誰かが居なくなること

過去のブログの転載(2013年9月20日)

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去年の暮れから今にかけ、大切な人が何人も亡くなった。
特にそれに対して何か言いたいわけじゃない。
ただ自分の今の思いを少しだけ残しておきたいなと思って、セコセコ文章をこしらえたい。

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ボクは大切な人が亡くなると、やると決めていることがあって。それはいつものランニングの距離を長くすると決めている。
どうしても時間がとれなければ、強く早く走ることにしてる。時間的な負荷か強度的な負荷を高め、フィジカルな痛みを自分に与える。
フィジカルへの痛みを通じ、彼らが亡くなったという事実を自分の身体に染み込ませようとしているが、効果があるのか分からないのだけど、それでも、もう戻れないひとつのポイントとして、身体に染み込ませたいと思って、そうしている。
彼らがボクに話したコトのひとつひとつ思い出しながら一定のリズムを刻み、長い距離を淡々と走る。雨であっても台風であっても、時間がなくて真夜中であっても、もくもくと走ることにしている。

そして後日(できるだけ早く)拙くても彼らに対しての文章を書く。彼らの人生について何かを書く。できるだけ今のキモチを率直に書く。
その文章は誰にも見せることはない。

これらの行為は言うまでもなく自己満足に過ぎないのだけど、文章を書くという行為を通じ、彼らがボクの中に居たであろう場所の存在に気づき、誰かの死を通じて、自分が少し変化しているような感じもする。うまく言葉にできないけれど、その人が居たであろう居場所の喪失、埋まりそうも無い気配がそこにあるのだけど、もっと昔に亡くなった人の場所の存在は、今だと随分違うものになっている。時間というのはとても強力なものだ。

とはいえ、走ることも、文章を書くことも、特に自分への効用ではないように思う。ボクは彼らが生きたことを記憶に留めておきたいのだろう。何度も思い出したいのだと思うのだ、だからフィジカルを通じて身体で覚え、文章を書くということが、僕に考えることができる記憶の方法なのだ。彼らの生きた事実の記憶。

そんな夏もそろそろ終わろうとしてる。

にしても、なんでまだこんなに暑いんだろう。

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