雑感-宗教について今思うこと

tum4480

今まで封じていた宗教系の本を解禁した。

宗教というのは、とても長い年月のあいだ(どれぐらい昔からあるんだろう)廃れることもなく、今なお多数の人の生きるための指針となってる宗教という仕組みを知りたいというのはずっと思っていてのだけど、なかなか本腰を入れれなかったので、改めて体系的に読みたいということで解禁した。

僕は宗教の環境に強いシステムの部分に興味があって、宗教は常に変化も無くコンサバティブに見えるかもしれないが、本質は普遍としてもガワは社会の情勢にあわせて柔軟に今に適応してる。もっと言えば、汎用的に作りまくる部分(抽象化しまくる部分)と細部を練り込む部分のバランスというのがとても絶妙であるように感じる。

抽象化すぎると、なんのこっちゃ?となるわけだし、細かく作りすぎると、え?こんなときどうするの?となる(そしてそれは宗派の分裂になったりする)
そして尚且つ、人の全ての行動(時には食べ物や性まで)を規定してしまうほどに惹きつける何かが無いとここまで長期的に持たない。
そのためキリストでも、仏教でも、ヒンドゥーでもユダヤでもイスラムでも何でもいいんだけど、長く保てた宗教というのは、どんな仕組みであったのか?というのはとても興味がある。

ちなみに仏教で言えば、仏教はどのように汎用的に作っているのかというと「悟ってないと分からなくね?」という考えが中心にあるように感じる。
いやーこれはすごい理屈に思う。

悟りというのが存在する。悟りというののには全てのことが分かっている。でもそれは言葉に出来ない。という「俺は知ってる。めっちゃ知ってる。全部知ってる。でも言葉には出来ないねん!」みたいな感じで押し通す。まあ悟ってから話そうぜ。悟ったら言葉使わないけどなwwwみたいな。

例えばイスラムならコーランであったり、キリストなら聖書であったりと、こうあるべきみたいな神のメッセージ(もしくは天使)があるのだけど、仏教はそれが無く。因果である。とても面白い。

ちなみに仏陀というのは1人のことを指すのではなかったりする。仏陀というのは何人も存在する。でも世界には1人しか居ない。悟ったら仏陀。宗派によるかもしれなしが仏陀になったら違う世界に飛ぶ。まだこの世界には仏陀は居ないみたいな理屈。

ただ宗教を学ぶにおいて、日本の現代社会において宗教を否定しているので、いま日本に宗教が入り込む余地はとても少ないと思う。
今の日本社会の指針と言えば「効率性」と「合理性」と「人に迷惑をかけるな」かなと思うが、これだけを軸に組み立てると、とても生きにくい。というのも合理的なプロセスではとうてい解答が出ないような問題がこの世には多数あって、それらは宗教的抽象化(問題の捉え方)というのはとても役に立ったりするので、なぜ葬式をするのか?なぜ他人を大切にするのか?みたいなところもとてもよく練られている。

そういうのを少し学ぶと生きやすいのでは?とは思うが、とてもみんな宗教を嫌う、の割に「霊」を信じてたり「神社」や「寺」だったり(みんな違いを知ってるのだろうか)にお参りに言ったりおみくじ引いたりやら、先祖は大事という話になったりする。ご都合主義すぎたりするので、さすがにそれは神も釈迦もキリストもびっくりに思う。あと願ったら叶うのを宗教だと思ってる人も多いが、これは宗派によるが基本的に願ったら叶うのが宗教ではない。少なくともそれがメインではない。

まあ自分は、そうはなれないのだけど諸外国の仏教徒の熱心な信者の様子を見てると、その人達はとても幸せなんだろうなという気もする。人は誰しも自分の生き方に自信を持って行きたいと願ってるとするならば、彼らほど確信に満ちて生きてる人は居ない。
ある本で読んだが無宗教の人が仏教の修行する地に降りて熱心な信者に言われたことが、
「次は信じられる人に生まれ変われると良い」ということであった。その人を諭すわけでもなく、仏教は輪廻であり、全てが仏陀になるための変遷と捉えているので他人にやさしい。すなわち自分に優しいという意図であり、それらを全て信じたうえでの、そんな確信に満ちた一言を未だ聞いたことない。
という宗教解禁。

仏教の深遠に触れていきたし。

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