雑感-学びに関して

人が何かをきちんと学ぶには、ある程度痛みを伴う必要があると最近考えるようになった。
日々生活をしてて、毎日こんなに色々あるのだなあ(棒)というほどに色々な出来事がある。精神的にググっと来たり、肉体的にググっと来たり様々なグラデーションや強度で問題と痛みは存在する。そしてその出来事の中で、大体が強い痛みがあることから何かの気づきを得てる気がする。

そんな痛みの中で、最近学んだことは「大事なことは誰も知らない」である。
文字にするとシンプルだし何ら捻り無しなんだけど、いろんな末に感じたことであり、なかなかテキストで書くとふーんという感じで。難しいところではありますが。まあ痛みの末に得た学びだ。

でもですね。こう自分で痛みこそ学びと思ってはきてるのだけど、あわせて僕はドイツのオットー・ビスマルクが言ったことを思い出す。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ってやつですね。
この格言に習えば、その思いは、おもいっきりの愚者思考でありまして、井上残念な気づきでありますが。
歴史から学んだだけで人はそのリスクを回避出来るのかなかなかに謎であります。

本当に人は他者の経験によって学べるのか?非常に難しい問題で、他人の失敗でも歴史的大失敗でも誰かの不倫でもそれらのディティールをいかに細かく説明され、人からの失敗の変遷を聞かせれても、それによって自分は同じ過ちをしないだなんて言い切れない。枝は違えど幹は同じみたいなこともありそうである。
そんなことを思ってたので、ブログを書くにあたり、ビスマルクさんの格言を細かく調べてみると、
正確なテキストはこうであった。
「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」
これなら分かる。

それであればそうだと思う。出来るだけ人の経験から学ぼうとし。学ぶことを辞めないのだけど、それでも痛みは避けられないというのが真実なのかもしれない。
そして我々はそれで手痛い失敗をしてから、ようやく「そうだ、これはあれと同じなんだ」とそれらの失敗を自分の血肉として経験に置換できるのかもしないという気がする。
あと、そういう痛みを受けると同じカテゴリに属する経験についての理解を深め、その後も同じパターンの失敗は認識できることが増えていくようになる。以前までは何ら気付きを得なかった事象や出来事からも何かを読み取れるようになったりする。そういう方法であれば他者の経験からも学ぶことは可能だ。

あとさ、思うのは、痛みによって学ぶ。というのは、別の意味で言えば、痛みって抜けると、もう痛くないんだよね。ってのも真実である。
今になってみるとみたいな。
そしてある種の痛みはその後もずっと記憶に残るので、それら含めて経験となる。いやはや大変である。

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