雑感-古典を読む効用

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スコット・フィッツジェラルドが
「他人と違うことを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」と言った。
確か、これは村上春樹が30歳の時に、デビュー時に「風の歌を聴け」で受賞の言葉で引いて、僕も40歳になるまでにまともな作品を書きたいと締めた(と記憶してる)

いまフィッツジェラルドを読む人が多いのか知らないのだけど、僕は基本的に古典小説を中心に読む。
古典を読む理由はシンプルで、当たりの率が非常に高いからだ。
だって今、50年前の凡百な小説が僕の目に現れる可能性は少ない。その小説が50年もの長い歳月の検証をくぐり抜けるは、簡単じゃないはずだ。

ただ古典にはその当たりの率が高い以外にも良きメリットはある。それは噛みごたえのあるフレーズに出会うことが多いのもその理由だ。
冒頭のフィッツジェラルドで言えば、彼は「この世界にはあらゆる形の愛があるが、同じ愛は二つとない」と言った。
これを聞いて、皆さん、そう簡単に納得出来ますかね?
僕は全然できなかった。
こと恋愛に縛っても同じ愛も多数あるだろうと思う。どこかの街の合コンで始まった恋が毎度唯一無二なら、ちょっとそれは疲れるのではあるまいか。インスタントな恋もそりゃあるのではないかと。

そんなことを思いつつ、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでると「幸福な家庭はどれも同じだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」という文章に出会う。トルストイ最高、ただ髭が長いだけじゃない。フィッツジェラルド分かってなかった。と感じた。その仮説は示唆に富んでる。このトルストイのフレーズだけで一晩ぐらい思索に耽ることは可能ではあるまいか。

そんなことを経たりしつつ、数年後、またフィッツジェラルドの冒頭のフレーズを読んだのですね。
でもですね。数年を経て、その言葉に出会った時に、僕は全然違うことを思い、
それは「なぜ彼は「同じ愛はふたつとない」なんてことを言ったのだろう」と。

俄然、フィッツジェラルドに興味がわき、彼がどんな人生を経て、小説を書いたのか、毎度出てくる破天荒な女性のモデル(ゼルダだ)そしてどんな生活をしてのたかと。
そして彼の小説における大きな疑問のひとつは「なぜ、彼はここまで美しい文章を書く必要があったのか?」というのはみんなが感じるに思う。彼の小説はひとつひとつの描写が本当に美しいのだ。
人物も建造物も所作も、彼の手に掛かると全てが美しくなる。そしてすべてが艷やかで華やかでドラマチックだ。そしてそれでいて全体的なトーンはとても物悲しく儚い。
僕は彼が生きた時代はあまりに華やかだったことを知る。常に彼は喧騒の中に居て、その中での生活を愛したのだろう。そしてそんなドラマチックな時間は長くは続かない、それらは限られた時間軸の限定された期間にだけ許されるたぐいのモノだ。そして気づけば、その音は過ぎ去ってしまう。もう喧騒は遠くにある。そんな華やかな時代を生きた彼は、そしてそれらが終わることをしっている彼はすべてを美しく書く必要があったのだろう。
そう思うと彼の冒頭の「同じ愛はひとつもない」という言葉は、そう生きざる得なかったフィッツジェラルドの生きた言葉として僕らの胸に突き刺さる。とても正直な心持ちとして。

最後に、彼の最高傑作と呼び声が高いグレート・ギャツビーから引用しよう。
グレート・ギャツビーの冒頭の言葉である(折角なので野崎訳じゃなくて村上訳で)
 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

是非古典を手にとって見て欲しい。
とても滋養に満ちた世界がそこにあると思うのだけど。


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