雑感−認知できるものと自分の視点

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自分が興味のないことを知るのは不可能かもしれない。
と最近思う。

先日うちの会社に施工管理(建築の)の人が遊びに来たときに「この事務所、安全基準大丈夫ですか?」みたいなことを指摘された。
今まで自分の会社の事務所の安全基準的に社内を見たことが無かったので、初めての視点であった。
他社の事務所行って見るものといえば、スリッパなのか、汚れがどうなのか、何を管理してるのかみたいな会社を見るうえでの視点のみで、安全の視点で社内を見回したことはない。

こういう例はいくつもある。
経理は経理の視点があり、営業は営業の視点があり、設計は設計の視点があり、
麻薬取締官には麻薬取締官の視点があり、葬儀屋には葬儀屋の視点があり、ビルの清掃員にはビルの清掃員の視点があるはずだ。

そして僕にも何らかの視点があるはずで(たぶん)その自分の視点で人との視点の違いを認識した出来事があり、
それはテレビドラマを見たときの視点が違ってた。
いま「カルテット」というテレビドラマを見ているのだけど、これがめちゃくちゃおもしろい。
テレビドラマというフレームはこう使って、こうやって、こう進めるの。という感じのお手本のようなドラマである。
目からウロコが落ちる、とても秀逸なドラマである(でもテレビドラマを見るのが10年ぶりぐらいで他のドラマと比較は出来ない。オリジナルなのかよくある構図なのか)

このドラマがとてもおもしろいので(3話から見始め、現在7話)色んなところで、このドラマ面白いみたいなことを言ってる折に、ドラマ好きの人から「私も見てる。めっちゃ面白い」みたいなことを言われ、盛り上がりビッグウェーブキタコレ!と思い、勇んで話し始めると、全然話が合わずで、互いに「え?」みたいな感じになってしまった。

その人の理屈は
・ドラマの可愛さ
・サスペンス的なドキドキ感
・ドラマ的伏線の張り方
・脚本家のチャレンジ
みたいなところの視点であり(もちろん僕には無い視点だったので、斬新だった)

僕の視点は
・ドラマとして追求しているベクトル
・シチュエーションコメディとしての成立
・個々の役割における登場人物との関わりと立ち振舞い

である。
なのでカルテットを見ている時の僕の視点は、
「4人は人生の大事なことに向かい合えなかった人たちの物語であり、4人が大事なことに向かい合う物語である(いまのところどっちに転ぶか分からないけれど。まだ向かい合ってない)
そのため4人が過去何から逃げて、何に向かい合わなかったのか、そしてこれからは何に向かい合い、何にコミットするのか?である。4人はかりそめのカルテットという枠で安住しようとする。そのかりそめの安定の生活に揺すぶりを掛けるのが、ドラマであり、脇役である。カルテットというのは時限的なモノであり、一生そこに居ることは出来ないという青春映画的なプロットと、シチュエーションコメディとベクトルをどのように絡ませるのか」という視点で見ている。
にしても脇役の女性陣が良い味出している。出しすぎているのだけど(そこは主人公の4人の演技と会話演出のレベルの高さもあり)高次元で物語が調和されている。彼女たちは現世の使者(もしくは向き合っている人々)である。

同じものを見ているのに話が噛み合わないのはドラマ好きの子は「連続ドラマ視点」で物語を見たのに対して、僕は「小説を見る視点」でドラマを見たから、落差が生まれてしまったのだなと。

僕が小説を見るときの視点は
・自我があって。
・自己があって。
・世界があって。
という3つの枠で全てを再構築しようとする。
そこから誰がどのような位置で、どのように動くのか?というところから紐解こうとする。
そのため、何を見るのも出来事にはあまり意味を見出さない。
最愛の人が死んだとかを見ても、特にそれについて良し悪しはない。あくまで死んだことに対して、まわりがどう動くのか?だけに興味がある。
僕が一番興味を無くすのは「最後に大どんでん返しが」みたいなあれである。ストーリはどうでもいい。

ドラマ繋がりで(ドラマ化してたので)
漫画「たられば娘」について上記のフレームで見れば、
自我:主人公3人組:幸せになりたい→結婚しか無いというドグマ。ただきちんと物事を考えたりするのは苦手。他人の評価から逃れらない。
自己:落ち目な脚本家、ネイリスト経営、居酒屋の手伝い
世界:仕事でも、恋愛でも、自分の軸をしっかりもって生活している人々

という構図に。
「誰かと関係が出来る:「何かが足りない人」
→イケメンバー店主:話がつまらない
→居酒屋の客:嫁さんが居る。
→ロックバンドの元カレ:モデルの彼女が居る

結婚というドグマに支配されている3人は、彼女たちは結婚というレースに正面からチャレンジする人たちである。ただ恋愛市場においては顔以外は弱者である。結婚できないとヤバイと思っている3人だ。
ただ彼女たちは自分自身とは向き合わないので、物語は常に平行線を辿る。
そこにイケメンの仕事も出来る金髪モデルが配備され、彼から発せられる言葉は「恋愛市場からの金言ではなく、軸をもった(風の)人からの人間的な鋭い指摘である。自分と向かい合えと追求される。」。とはいえ本作品に成長なんてワードは存在しないので、あるのは3人による自己嫌悪である。(題名どおりとも言えますが)

僕としてはわりとダルい感じなのですが(ずっとこれやってんの?かよ的に)刺さる人には描写がいちいち刺さるらしく、計算されて作られているなあという感じである。

って何の話だっけ?
そうそう視点。他人の視点は興味を持たないと関知できない。いまパソコンを打ってるキーボードの細菌の繁殖についての視点とか、いま文字を見ているブルーライトによる脳への影響の視点など、今まで興味がなく持ち得ない視点のため関知できないのだけど、自分の人生のベクトルとして、多くの視点を獲得したい。
そのために本屋では常に自分が興味無さそうなコーナーに行くことにしている(電車の中吊りでもそうで)
これはレコメンド型のAI文化の逆張り戦略である。たぶん未来はレコメンドが幅を聞かせ、大体みんなが似たようなnewsを見て、似たような論説を読むはずだ。Amazonで本を買ったら、その関連本を進める世界。
そこは意識的に、戦略的に逆に張りたいと思う。

そして視点を増やすのと同時に、視点ごとの解像度を上げていきたい。
マイルスとチャーリー・パーカーを聞き分けたいし、トルストイとドストエフスキーの追求した世界観を感じ分けたい(ロシア文学繋がりでつい)、マリオとゼルダのアクション操作UIのコンセプトを説明したい。
認知できる視点を増やすこと、そしてひとつひとつの視点の解像度をあげることを意識していきたい。

何か主題と違うブログになったっぽいけれど、日曜の夜ということでひとつ、ご容赦いただけますよう。


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