
そういえば、3年前に「楽しいってなんだっけ?」とライトなエントリーを書いた。
そのときは、そこまで深く考えずに文章を書いたのだけど、最近は「楽しい」がとても大事なものになってきたと思う。
パンデミックの状況で、多くの人が「自分が本当に大事なことってなんだろう?」と自問したはずで、その中でも「自分の楽しい」をひとりひとりが考えて、追求したはずだ。
楽しいとは何か?どうなれば自分は楽しいんだろう?
を追求した文章であります。
続きを読むそういえば、3年前に「楽しいってなんだっけ?」とライトなエントリーを書いた。
そのときは、そこまで深く考えずに文章を書いたのだけど、最近は「楽しい」がとても大事なものになってきたと思う。
パンデミックの状況で、多くの人が「自分が本当に大事なことってなんだろう?」と自問したはずで、その中でも「自分の楽しい」をひとりひとりが考えて、追求したはずだ。
楽しいとは何か?どうなれば自分は楽しいんだろう?
を追求した文章であります。
続きを読むもしアナタが毎日まとまった文章を書いているのであれば分かっていただけると思うのですが、自分のキモチをそっくりと文章に移し替えるというのは、非常に難しい作業だ。
全力を尽くして、自分の思いを文章に起こして、翌日自分が書いた文章を後から読み返してみると、毎度愕然とする。
なんだ、この文章は、、、、と。
翌日になってみると、自分の文章での落とし込めていない自分のキモチが気になり、
描写されてない何かを感じ、掘り下がってない何かに意識が向くことばかり。
そんな自身の文章力のなさに毎度ガックリとくる。
これって、昔のフィルム時代の写真の現像の心境と似ている。
年齢を重ねることが辛いことのひとつは、毎日感動することが減ってしまうことだ。
例えば昔に感動した作品を再読したときでも、
以前は強く感動したようなモノでもも、あれ?これどこで感じたんだろう?みたいなことが増える。
自分が好きだったジャンルの同じような作品を見ても、
結局は過去の焼きましだよな。とか。
多数の作品を見た経験によって、何のフォーマットとか何を下敷きにしているのかとか透けて見えてしまうことが増える。
そして気づけば批評家気取りみたいなスタンスになってしまい、楽しむより先に批評してしまう。
僕は可能なら、何を見ても素直に感動できる人になりたい。
自分個人が貧乏というのは、本当にそこまでイヤなものであり、価値の無いものなんだろうか?そんなにイヤですか?貧乏。
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先日、30歳前後の女の子と話してて、お金が欲しい話になって、僕としては素直に「なんでお金欲しいの?」と聞いたところ、欲しいに決まってるという回答があった。
何か欲しいモノあるの?と聞くと、めちゃくちゃある。かばんも欲しいし、旅行に行きたい。ということだった。
そこで僕は「今の幸せが10として、毎月お金を10万使うことでその幸せの値を15にできる?」と聞いたところ「余裕で出来る!毎月5万分服を買って、2万ご飯食べに行って、3万旅行資金に溜めて、半年に一回旅行する」といった。
その考えの良し悪しを判断するつもりは全然無いのだけども(それは良くも悪くもひとつの考え方に思う)本当にそれはお金じゃないと解決できない問題なんだろうか?なと疑問に思う。
過去のブログの転載記事(2015年10月24日)
そのために今までも出来るだけ以前と違う住環境を選択してきた。
都会から山に住んだり、川の近くに住んだり、湖の近くに住んだりしてきてのだけど、折々の四季が毎日の移動やランをカラフルに彩ってくれてとても楽しかった。
一度の人生で4度美味しいみたいな感じでとても楽しい。
今まで住んでみて2回りぐらいの四季を見て、ようやくその土地の少しの腹落ちがあるような気がする。ここってそういう土地なのか。と。
ちなみにだけど、そのなかでもういちどどこに住むかと言われたら川の近くかもしれない。1日で川の流れを見るのはホッとする時間で、まあぼちぼち頑張ろうかなという気持になる。
とりあえず。みんなに言いたいことは、僕は卓球をしないということ。
これは大きな声で言いたい。
僕はプロの卓球を目指さない。
なぜか?
まずパーソナルスペースがきつい。相手との距離が近い。
ぜったい鼻息当たる。
俺は多分人の鼻息を受けると、集中が途切れるタイプに思う。鼻息苦手。
あとさ、挑発の感じが強め。
目の前で「おっしゃあああーー」からの「さぁああああーー」からの「うぉおおおおおおお」であります。
絶対に自分だったらビクンビクン反応してしまう。
もうひとつは、
エイブラハム・リンカーンの言葉に、
少ない人を、ずっと騙すことはできる。すべての人を、少しの間騙すこともできる。しかし、すべての人をずっと騙すことはできない。
という言葉がある。
好きな言葉である。名言だ。古典好きな自分として、長く残るコンテンツって、やっぱりそういうことだよなー。みたいに思うことが多い。
ただこれってリンカーンが言ってたと全然知らなかった。リンカーンの言葉であるなら、これはどこで言ったのだろう?
リンカーンと聞いて、思い出す言葉はもうひとつある。
それは、
あなたがころんでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ。
である。
この言葉で聞いたときに思ったことは、
以前のブログの転載記事(2015年7月31日)
7月11日、任天堂の岩田さんが亡くなるという訃報を聞いてから、何だかモヤモヤが続く。
いや、すいません。ありのままに言います。
うまく言葉にできないほどに、とても、とても悲しい。
誰かと岩田さんについて話したいような気もするけど、うまく話せないような気がして、何も言わず、貝のように黙って、静かに時が過ぎるのを待っていたんだけど、何か書いてみることにする。
ここでいま何か書かないと、二度と何も書けない気がするのだ。
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先々月、仕事で京都のある大学を訪れて、その帰り道に任天堂本社の横を通り過ぎたときに、僕が「任天堂についてなら何時間でも話せますよ」と言ったところ、「車中ヒマだし、話してみてよ」と言われ、20分ぐらい任天堂について話した。
もしアナタが今から富士山を登頂するとして、どのような準備をするだろう?もしくはエベレスト登頂なら?
防寒着やピックを用意するかもしれない、当然水や食料も必須だ、アンダーウェアや雨用のグッズも必要かもしれない、怪我や病気を考えて応急グッズなんかも持っていくかもしれない。
天候や気温や重量など、自分の能力を考えたうえの準備をするに違いない。
サンダルと短パンで登頂狙いますというのはパフォーマーか、世間知らずのどちらかに思う。
多分それぐらい念入りに準備をするだろう。エベレスト登頂というのは生半可なモノではないのだ、多くの困難や苦境は想像に難くない。
そして最近、人生においてエベレスト登頂並みの困難が「うまく年を取ること」だと感じてる。
もちろん人はダラダラと年を取れる。ただダラダラと上手くの間には、とても大きな壁が存在してる。
人生38年で。努力して身についたことがひとつだってない。
昔からフローやステップやモデルを書くのが苦手(ビジネスモデルを図解とか)
美しいパワポとかも全く書けない(いつも誰かに手直しをお願いしている)
努力して何度かやってみたんだけどう、どうしても上手くいかない。
そのため仕事で努力が必要なことは誰かにアウトソースして、自分しか出来ないことに力を注ぐようになった。
まあ仕事はいい。仕事は、言ってもみんなに助けてもらいながら、何とかやっている。
ただ苦手でスルーできないこともある。それは自分の好きな音楽の言語化である。
音楽を聞いて、なぜその音楽が良いと思ったのかを言語化したいと思っているが、これがどうも苦手で出来ない。