雑感−毎日の変化と感動

ピー

年齢を重ねることが辛いことのひとつは、毎日感動することが減ってしまうことだ。
例えば何か作品を見ているときも、
以前は強く感動したようなモノでもも、あれ?これどこで感じたんだろう?みたいなことが増える。
自分が好きだったジャンルの同じような作品を見ても、
結局は過去の焼きましだよな。とか。
多数の作品を見た経験によって、何のフォーマットとか何を下敷きにしているのかとか透けて見えてしまうことが増える。
そして気づけば批評家気取りみたいなスタンスになってしまい、楽しむより先に批評してしまう。
僕は可能なら、そういう年の重ね方を避けていきたい。
出来るだけ何を見ても素直に感動したい。

とはいえ。そうは言っても、毎日同じものを摂取し、同じような音楽を聞いて、同じような本を読んでいる。
所詮毎日が同じことの繰り返しであり、昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日である。ってなモンだ。
だから強制的に毎日に変化をつくっている。

そのひとつの例が、
前回のエントリーで書いた「趣味は引っ越し」ってのも、強引に変化をつくる方法である。
引っ越しすることで、いつもの通勤路が一新され、よく行く飲み屋を変更し、いつもの生活ルーティンをアップデートする必要が生じる。
朝の歩くルートが新しくなることで、街で行き交う人達の顔や服装が変わり、帰り道に寄る飲み屋なども代替えが必要とされる。
そういう変更のあれこれは面倒くさいことばかりなんだけども、そんな風に強制的に毎日に変化をつけることで色んな新しいモノをまた摂取し、毎日の考える幅や種類が変わり、いつもの違う思考プロセスを経て、自分の好奇心が刺激されているのを実感する。

これは全てにおいて、そのように強制的に変化をつけるようにしている。
僕の場合、飲みでも同じメンバーで毎度飲むことは少ない(会社メンバーでも変わることが多い)
いつもと違う座組みで、誰か新しいメンバーが入り、これならどう展開になるかわからないな。みたいな飲み会を常に探す。
もちろんそういう場合は会話の内容も踏み込みが必要な話題も多く、どうしてもリスクを取った会話をする必要もあって、そのリスクをうまく吸収できず、よく会話の展開に失敗しているけれど、いつも何らかのチャレンジはひとりでやっている。

これは音楽もそうで、食べ物もそうで、本もそうだ。
音楽ならSpotifyとかでアイスランドの人気チャートとか聞いて、気に入った音楽を深掘りし、食べ物も大将のおまかせみたいなモノを頼むことが多い、本であれば本屋で自分が知らない領域の本棚の本をいくつか買ったりするようにしている。最近読んだ本は「母という病」と「小川洋子短編集」だった。

そして最大の刺激はもちろん仕事だ。
毎日やったことない仕事や考えたことがない課題に囲まれて、それらのタスクをひとつ取って、処理してとやっていると脳が新たな刺激で活性していると感じる。
1分1秒成果を出さねばという思いと、長期的なレンジでモノを考える必要性のバランスを取り、
ひとつひとつのタスクで自分がやるべきかを考え、そして好奇心のわく仕事と息抜き的な仕事を交互にやり、
それらを通じて優秀なスタッフたちと一緒に仕事を進める。
それらは単純な刺激だけじゃなく、そういう連続した行いを繰り返すと、今まで知らなかった感動を生むことがある。
年をとることではじめて感じる感動。
加齢による感動の減少に抗うために、別の感動の生み出すために、これからも出来るだけ新しい刺激を摂取し、それを咀嚼し吸収しつづきたい。
多分そういう連続した行いが新たなアウトプットを吐くことになると信じて。
でもそろそろ引越し先のバリエーションはなくなりつつある。。。

雑感−認知できるものと自分の視点

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自分が興味のないことを知るのは不可能かもしれない。
と最近思う。

先日うちの会社に施工管理(建築の)の人が遊びに来たときに「この事務所、安全基準大丈夫ですか?」みたいなことを指摘された。
今まで自分の会社の事務所の安全基準的に社内を見たことが無かったので、初めての視点であった。
他社の事務所行って見るものといえば、スリッパなのか、汚れがどうなのか、何を管理してるのかみたいな会社を見るうえでの視点のみで、安全の視点で社内を見回したことはない。

こういう例はいくつもある。
経理は経理の視点があり、営業は営業の視点があり、設計は設計の視点があり、
麻薬取締官には麻薬取締官の視点があり、葬儀屋には葬儀屋の視点があり、ビルの清掃員にはビルの清掃員の視点があるはずだ。

そして僕にも何らかの視点があるはずで(たぶん)その自分の視点で人との視点の違いを認識した出来事があり、
それはテレビドラマを見たときの視点が違ってた。
いま「カルテット」というテレビドラマを見ているのだけど、これがめちゃくちゃおもしろい。
テレビドラマというフレームはこう使って、こうやって、こう進めるの。という感じのお手本のようなドラマである。
目からウロコが落ちる、とても秀逸なドラマである(でもテレビドラマを見るのが10年ぶりぐらいで他のドラマと比較は出来ない。オリジナルなのかよくある構図なのか)

このドラマがとてもおもしろいので(3話から見始め、現在7話)色んなところで、このドラマ面白いみたいなことを言ってる折に、ドラマ好きの人から「私も見てる。めっちゃ面白い」みたいなことを言われ、盛り上がりビッグウェーブキタコレ!と思い、勇んで話し始めると、全然話が合わずで、互いに「え?」みたいな感じになってしまった。

その人の理屈は
・ドラマの可愛さ
・サスペンス的なドキドキ感
・ドラマ的伏線の張り方
・脚本家のチャレンジ
みたいなところの視点であり(もちろん僕には無い視点だったので、斬新だった)

僕の視点は
・ドラマとして追求しているベクトル
・シチュエーションコメディとしての成立
・個々の役割における登場人物との関わりと立ち振舞い

である。
なのでカルテットを見ている時の僕の視点は、
「4人は人生の大事なことに向かい合えなかった人たちの物語であり、4人が大事なことに向かい合う物語である(いまのところどっちに転ぶか分からないけれど。まだ向かい合ってない)
そのため4人が過去何から逃げて、何に向かい合わなかったのか、そしてこれからは何に向かい合い、何にコミットするのか?である。4人はかりそめのカルテットという枠で安住しようとする。そのかりそめの安定の生活に揺すぶりを掛けるのが、ドラマであり、脇役である。カルテットというのは時限的なモノであり、一生そこに居ることは出来ないという青春映画的なプロットと、シチュエーションコメディとベクトルをどのように絡ませるのか」という視点で見ている。
にしても脇役の女性陣が良い味出している。出しすぎているのだけど(そこは主人公の4人の演技と会話演出のレベルの高さもあり)高次元で物語が調和されている。彼女たちは現世の使者(もしくは向き合っている人々)である。

同じものを見ているのに話が噛み合わないのはドラマ好きの子は「連続ドラマ視点」で物語を見たのに対して、僕は「小説を見る視点」でドラマを見たから、落差が生まれてしまったのだなと。

僕が小説を見るときの視点は
・自我があって。
・自己があって。
・世界があって。
という3つの枠で全てを再構築しようとする。
そこから誰がどのような位置で、どのように動くのか?というところから紐解こうとする。
そのため、何を見るのも出来事にはあまり意味を見出さない。
最愛の人が死んだとかを見ても、特にそれについて良し悪しはない。あくまで死んだことに対して、まわりがどう動くのか?だけに興味がある。
僕が一番興味を無くすのは「最後に大どんでん返しが」みたいなあれである。ストーリはどうでもいい。

ドラマ繋がりで(ドラマ化してたので)
漫画「たられば娘」について上記のフレームで見れば、
自我:主人公3人組:幸せになりたい→結婚しか無いというドグマ。ただきちんと物事を考えたりするのは苦手。他人の評価から逃れらない。
自己:落ち目な脚本家、ネイリスト経営、居酒屋の手伝い
世界:仕事でも、恋愛でも、自分の軸をしっかりもって生活している人々

という構図に。
「誰かと関係が出来る:「何かが足りない人」
→イケメンバー店主:話がつまらない
→居酒屋の客:嫁さんが居る。
→ロックバンドの元カレ:モデルの彼女が居る

結婚というドグマに支配されている3人は、彼女たちは結婚というレースに正面からチャレンジする人たちである。ただ恋愛市場においては顔以外は弱者である。結婚できないとヤバイと思っている3人だ。
ただ彼女たちは自分自身とは向き合わないので、物語は常に平行線を辿る。
そこにイケメンの仕事も出来る金髪モデルが配備され、彼から発せられる言葉は「恋愛市場からの金言ではなく、軸をもった(風の)人からの人間的な鋭い指摘である。自分と向かい合えと追求される。」。とはいえ本作品に成長なんてワードは存在しないので、あるのは3人による自己嫌悪である。(題名どおりとも言えますが)

僕としてはわりとダルい感じなのですが(ずっとこれやってんの?かよ的に)刺さる人には描写がいちいち刺さるらしく、計算されて作られているなあという感じである。

って何の話だっけ?
そうそう視点。他人の視点は興味を持たないと関知できない。いまパソコンを打ってるキーボードの細菌の繁殖についての視点とか、いま文字を見ているブルーライトによる脳への影響の視点など、今まで興味がなく持ち得ない視点のため関知できないのだけど、自分の人生のベクトルとして、多くの視点を獲得したい。
そのために本屋では常に自分が興味無さそうなコーナーに行くことにしている(電車の中吊りでもそうで)
これはレコメンド型のAI文化の逆張り戦略である。たぶん未来はレコメンドが幅を聞かせ、大体みんなが似たようなnewsを見て、似たような論説を読むはずだ。Amazonで本を買ったら、その関連本を進める世界。
そこは意識的に、戦略的に逆に張りたいと思う。

そして視点を増やすのと同時に、視点ごとの解像度を上げていきたい。
マイルスとチャーリー・パーカーを聞き分けたいし、トルストイとドストエフスキーの追求した世界観を感じ分けたい(ロシア文学繋がりでつい)、マリオとゼルダのアクション操作UIのコンセプトを説明したい。
認知できる視点を増やすこと、そしてひとつひとつの視点の解像度をあげることを意識していきたい。

何か主題と違うブログになったっぽいけれど、日曜の夜ということでひとつ、ご容赦いただけますよう。

雑感−凄く言いたいことと、少し言いたいこと。

本日弊社のサービス「ファッションレンタルleeap」がヤフーニュースのトップに掲載され(AERA様の掲載記事経由にて)、ウワサのYahoo!砲を体感しています。

そこでYahoo!経由にて本ブログにお越し頂いた人も居るはずで、

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このYahoo!のビッグウェーブに乗って一言言いたいことがある。

それは

Maggie Rogersめっちゃ良いってこと。
今年のフジロックに出るアーティストを全部検索して聞くという荒業をしてるときに見つけた。
このフィジカルに訴えかける肉的な音楽にノックアウトされ、最近よく彼女の音楽を聞いている。
民族的というか原始的なリズムとテクノロジーが融合され、そこにスウィートで張りのある声が乗り、一見軽いけれども、芯に残るズッシリと来る、最近のお気に入りであります。

というわけで一言言いたいことは言えたので、ちょっとだけ言いたいことも書きたい。

ヤフーニュースに当サービスを掲載頂き、本当にありがたく。
ただ特にシェアリングの波に乗ろう、メディア受けを考えてサービスを立ち上げたいというのではなく、紆余曲折を経てレンタルにたどり着いた。
とても泥臭い道のりだった。とはいえ淡々と書きたいので、以下。

▲leeap立ち上げまでの流れ
・3年前にコーディネータhideki(アゴが割れたキャラクター:興味あるなら検索してちょ)というサービスを運用。
・hidekiはオサレな青文字系女子(三戸なつめちゃんのような。)の古着コーデ一式を丸ごと買えるサービス。
・買い手もオサレコーデで嬉しい、青文字系のオサレな人も収入になりというビジネスモデルを立ち上げ。
・青文字系女子にはある程度認知されるも、モデルになってくれた子の毎日の生活にコーデ作りを組み込めず、コーデ量産の手を色々と考えるも古着一点もの&量産が難しいところでモデルとしての限界を感じる。わりに絶望期であり、おりに暗黒期であった。
・そこでコーデを丸ごと売るんじゃなくて、コーデを丸ごと貸そうと思い、レンタルに変更。
・あわせて女子はあまりコーデ丸ごとの需要が無さそうと思い(hidekiの男性版無いの?という声多し)メンズチャレンジ。

という流れにて立ち上がったサービスです。

そしてhidekiでもleeapでも立ち上げの基底に流れる想いは
「この世に無い価値を提供したい」というのがある。

leeapを運用し、お客さんより「ファッションを変えることで、自信が出来て、彼女が出来た」というご報告は既に何人も頂戴している。
以外にも「奥さんとの会話が増えた」「娘からカッコいいと言われる」「ファッションに興味が出てきた」という声も多く。
そういう声を聞くと、ついガッツポーズが出てしまうことがある。
人に見られると恥ずかしいので、小さな小さなガッツポーズだけども、そのガッツポーズひとつひとつにお客さんの声が乗っている。お客さんからの声で小さく拳を握らせて頂いている。

ついついスタートアップをやっていると足元の数値を追ってしまうところはあるけれど、僕としては、数値を横目では見つつ、一番はお客さんの声にきちんと向き合いたい。
コストももちろん大事で、オペレーションの効率化ももちろん大事なんだけども、お客さんが喜んでくれるためには何をすればいいのかというところを一番に考えたい。

そして今その想いを一緒に持ったメンバーが集ってくれてきていることが何よりも楽しい。
僕は出来るだけ前に出ずにみんなが楽しいような環境を作るところにコミットし、みんなが力を発揮し、お客さんに今まで無かった価値を提供したい。
もし想いを一緒に、仕事でガッツポーズがしたい。そう思う人は、ぜひ僕までご連絡ください。

大変なのは間違いないけれど、きっとガッツポーズが出るような仕事になることを約束します。

雑感-年を取ると下がる能力、伸びる能力(仕事編)

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この世には父親と仕事をした事がある人と、仕事がしたことが無い人に分かれると思うのですが、僕は前者であります。
ガッツリと仕事をしたことがある&現在進行形で仕事をしているのですね(週1ぐらい)

そんな風に父親と仕事をしていると見えてくる15年前とくらべて落ちてる、上がっている能力がいくつかありがあって、そこらを今回は掘り下げてみたい。
なお僕は興味の源泉として「人は加齢によって、どう肉体と精神が変わるか?そして何かが変わるならそれは事前に準備や対策をすれば予防/逃げられるのか(長い)」と思っているので、そういうところの視点からお付き合い頂ければと思います。

・集中力
これは私的にはかなり落ちているように見える。
あれ?この人、俺の話を全然聞いてない?というのは父親の特筆能力であったがそれは顕著に磨きが掛かっている。
自身としては集中力のダウンを感じることはまだ無いのだけれど(まだ読書1日12時間もいける)集中力が落ちないよう事前に対策しておきたい。
簡単に集中力と言っても父親を見てるに「自分が分からないことに対する集中力(類語:我慢)」と「自分の興味がある部分に対する集中力」のふたつにカテゴライズすると前者の能力を大きく落としているように見える。

・記憶力
これは非常に難しいのだけども、状況描写みたいな記憶力は恐ろしいほどに落ちる。これは自分でも体感するところであり。あれ?昨日なにしてたっけ?みたいのことが頻発する。父親を見るまでもない。ただ父親と話をしていると落ちている例は多数あり(読んだ直後の本の内容を言えなかったり、先日の話を覚えてなかったり)これは60にならずとも、既に自分としても日々能力の下落を感じる。でもさもともと記憶力は宜しく無かったので、そこらはラベリングと外部記憶装置(SSD)を駆使して逃げ切ってやるぜ。の心境であります。

・決断力
これは見てるに全然オチてない。いま父親は66歳だが、全然オチてない。むしろ上がっているのではないか?
将棋の羽生善治さんが「決断力」という書籍で「直感の多くは過去の経験の蓄積である」と言ってたのだけれども、そういった側面から、経験値から決断力が上がるのかもしれない。もしくは記憶力の低下から不要な情報を切り捨てて重要な情報のみから決断が素早くなるのかもしれない。ただその決断が正しいのかは結果を測定しておりませんで、確度については保証できません。

・論理的考察力
ええっと、もともとあまり高くなかったような気もするので過去との比較が機能しないひとつであるが、特に下がらないように思う。ただ支持したロジックに固執するというのはあるのかもしれないが、ただそれは年齢に伴い経験を拠り所にする部分であり、論理的考察力とは関係のないところからもしれない。頑固さは上がってるようにも思うが、昔のとんでもなエピソードが出てこない分、頑固さも下がっているのかもしれない。もう少し検証したい。

・野心
これは下がらない。欲望の多くは下がっているのだけれど野心は落ちてない。
父親は会社経営者であり年商20億ぐらいの会社を経営しているのだけども、3年後に30億達成。という思いは強く。目標必達へのPUSHも結構なモノで、そうおもうとカイジ黙示録の帝愛グループの兵藤和尊会長の野心(世界中の金を集めろ)が発露するフレーズもリアリティがあるのかもしれない。こう同業他社での集まりなどで20億じゃなくて30億って言いたいだけではと疑ってしまうが、そういう経営者の思いこそ、ほかのスタッフの人生が豊かになる側面ってのはある。野心は大事。
父親の野心に振り回せられる人生も悪くない(週1だからだけど)スタッフの人は大変です。

・笑いのレベル
20年前の彼(父親)のお笑いがどのような類のお笑いであり流れであり語彙であったかは記憶にない。ただよく自分で言って自分で笑っているので楽しそうである。
そしてまわりも社長だから笑っとくかみたいな空気もあって、まあ笑いのレベルよりも笑いあることを言おうとする意識があるかが大事なのね。と思うところだ。

・好奇心
ここも落ちてない。パソコンへの興味と(苦手だけど)仕事に関連した新技術(例えばAI)などへの興味はつきない。ただこれは年齢によるものよりも、彼は日々よく歩いて色んなモノを見て、色んな本を読んでとしているからだろうと思う。
これは僕としてはポジティブな結果(鍛錬によってキープできる)として捉えており、有り難い限りだ。
好奇心がなくなれば人生退屈そうと思っているので、何とか好奇心はキープしたい。

・性的
・・・父親のプライベートな性質に関してパブリックな場で考察するのは僕としても気がひけるので自粛させてください。
ただ父親はシモネタが嫌いなので(トイレなども含め)過去の基準がよく分からず。家族でメシくってて、おしっこの音についての問題提起をしたら「そんな話するな」と怒っていたので、シモネタ系はほぼノリが悪いのは今昔共通である。

以上父親と仕事をしていて感じたことである。
彼の名誉のために言っておくと、何だか凄く加齢な感出てるかもしれませんが、まだまだキレキレで現役で業務遂行されております。

まあでも。自分としては「集中力」と「記憶力」にフォーカスして加齢を迎えたい。
私的には加齢による能力低下への注意とあわせて「若者にアドバイスしたい」「みんなから頼られたい」のキモチが肥大しないように注意したいなと思うところだ。

雑感−リオオリンピックの男子卓球を見て思ったこと

A photo by David Schap. unsplash.com/photos/W5TJpNKI9c4

旬な話題を旬が過ぎてから書きたいというわけで。
リオ男子卓球を見ていて思うこと。

それは僕が卓球でメシ食うのは無理げー。である。
まあ僕ではスポーツ全般で無理なんだけども。理由から能力は外すとして、スポーツ系でメシ食うのが無理な理由は日々の修練を本番の一発勝負で結果を出すというプロセスにほかならない。
毎日毎日徹底的に追い込み、そして戦略的に休息を取り、自分の能力が高まるために合理的な日々を生きる。
そして本番当日の一発勝負である。
結果と努力の正の相関はあるとしても、トッププロ選手とほかのプロ選手の練習時間の差にそこまでの相関はあるまい。
あとは才能と本番のコンディションとメンタル勝負である。

そして数あるスポーツのなかでも、特に卓球が無理だ。
まずパーソナルスペースがきつい。相手との距離が近すぎる。
まだスポーツの中でも自分との戦い系競技はわりと平穏に出来るのだけど、相手の感情をもろに受けると、こちらも思いっきり影響される。
攻撃的にこられればムキになってしまうし、馬鹿にされればムキになっちゃうし、挑発されれば、ムキになっちゃう。
スマッシュを叩き込みたいという衝動に駆られて、終始相手に翻弄されるのが目に浮かぶようである。

昔から対人ゲームなんかもそうだ。
今までの文脈から対人の対戦が弱そうに書いちゃったのだけど、そうじゃなくて、もう少し事態は複雑で、対人ゲームはめっぽう強かった。
というのも自分がムキになっちゃうタイプなので人がムキになるポイントはある程度わかるので、先に相手のムキになるポイントにあたりを付けて、そこを付いて、挑発して、相手を苛立たせて、ムキにさせて、そこを狙いすましてカウンター。という手法で、あまりゲームは上手くなかったが対人ゲーは大体が強かったように思う。
ただである。ただそこにプレッシャーが掛かるとダメで、これに勝てば優勝みたいなインセンティブが入ると途端に手に力が入り、今まで自分が挑発してきた相手から
逆に挑発を受けて負けてしまう。シューティングゲームでもみんなが残っているうちはそれなりに強さを発揮出来ても、俺が最後の一人になるとあっけなく負けてしまう。プレッシャーの弱い人間の常である。

卓球はすなわち「インセンティブ」と「対人挑発」のレベルが高すぎる。
目の前で「おっしゃあああーー」からの「さぁああああーー」からの「うぉおおおおおおお」である。
絶対にビクンビクン反応してしまう。
あれ目の前でされてインセンティブが付与されていたらと思うと、自分事のように恐怖を感じてしまう。

経営者でもビジネスでもいいんだけど、プロとして生きるのは楽だ。
日々積み重ねていけばある程度結果に繋がるところがある。
上手く行ってる事例が多くあるので、その事例からエッセンスを抜き取って、自社にカスタマイズして、それを踏襲すれば良いというところがある。
売れる体制作りをすれば、来月もある程度は売れるのが見込めたり、ある程度初動で準備しておけばコピペして次回もサクサク出来たりと、結果に繋がりやすい。

ただですよ。ただね。
いまスタートアップのリーダーとしてやっていて、ややシェアリングエコノミーの時流もあって、取材だとかピッチイベントだとか、人前で話すことが増えているのですね。
そういうのを避けられるというのも非常に経営者のメリットでして。もうガクブルなわけですよ。いまそこにチャレンジするのかとてもとても悩むのですね。
それがあるとそれに気を取られて、本業に身が入らずでとても困る。(決して憂鬱でもなくチャレンジしたいという熱はあるのだけど、ムキになってしまう感じが近い)
そしてムキになって失敗するので、その後も落ち込むわで、仕事は楽しいのに、ナンノコッチャである。

というわけで今ピッチイベントなどを通じて登壇系にチャレンジするかの狭間である。
ただ経営者的なポジションなので、出来るとなると役員クラスになり、それもなあ。である。
出来れば人生ムキになるのは、自分との戦いだけにしたいというのが自分の人生のベクトルである。卓球を見ていて早めに対策を練る必要があると感じる日々。

雑感−スタートアップにチャレンジする理由

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leeapという新しいサービスをリリースして4ヶ月が経ち、
毎日いろいろなドラマがあって、色んな出会いがって、色んな感情の起伏がある。

えー!こんなに色々とやることってあるんだ?って日々で、全然うまくさばけない。
今まで16年ほど経営者として経験を積んできたのだけど、その経験はあまり機能しない。

そういうプラクティカルな部分以外に、毎日、朝にはテンション上がりすぎて困ったと思ったら、夜には「もうだめだ」ってなったりな日々で精神もあわせて揺れる。

それでもこう毎度スタートアップとしてチャレンジするのはなぜなのか?
自分でもよくわからず、何にモチベートされているのかよくわからないままチャレンジを続けているような感じで、自分でもこうも感情の起伏の激しい日々で安泰の道もいくつありそうだけどもそれを選択せずにチャレンジを続けているのか不思議だ。

ただ改めて、なぜこんな思いをしてるのかと言えば。
チャレンジが無いと飽きるからだと思う。
安泰の道だと飽きる。趣味に活きれば良いのだけど(本に)そうしたら仕事を辞めたいという衝動に繋がってしまう。ふたつに集中する事がイマイチうまく出来ない。
スタートアップが飽きない理由はシンプルだ。常に課題しか存在しないからだ。目の前の課題がこれでもかと詰まれていく。そしてその課題とともにヒリヒリ感がつきまとう。そしてそのヒリヒリ感の胃の締め付けはギャンブルのそれと似ている。
貧弱な装備で登山にアタックしてるみたいな、小舟に少ない食料を積んで新大陸を探すみたいな、
早く登りきらないと、早く新大陸を見つけないと、燃料が切れちゃうというところのギリギリ感がオブセッションのようにつきまとう。
課題とギリギリ感。
毎日のしんどさもちょっと凄ければ、エキサイト感も等価で提供される。

ただこのチャレンジの良き点は、ギャンブルのそれとは違い仲間と一緒に味わえることだ。
今一緒にチャレンジしてくれる仲間がゆっくりと集まりつつあって、このフェーズになれば、この人に声をかけようということも何人か居る。
また外部の協力者も多くの力強い人が援助をしてくれようとしている。

僕としては出来ることはシンプルで。
出来るだけ登り方や針路をぶらさないようにすることだ(実際はブレブレにも思うけれど)
新しいライフスタイルが日本に広まるように頑張っていきたい。
手前味噌だけれど、leeapは本当に面白いサービスで、誰かにとっては堪らないサービスにになりつつある。

まだまだKiizanKiizanは環境的には良くないですが、一緒にめちゃんこ良いサービスを作っていきたい人居ましたら、ぜひお声掛け、ご紹介ください!
環境的にはまだご一緒に出来ないかもしれませんが、一度お話だけでもさせてください。

雑感−年を取ると感動しなくなることについて

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30歳を過ぎて思うのだけど、日々心から感動する事が少なくなった。
人気の小説でもゲームでも何でも良いのだけど、はじめは面白いなと思うのだけど、少し長く続けてやると「なんだよ過去の焼き直しじゃない」みたいな結論に落ち着いてしまう。
年々、年を経るごとに以前まで感動したであろう心を揺さぶっていたであろう物事の回数が減り、感動の総量もひと目盛りぐらい減っているように感じる。
ある作品を見ても、その作品からポイントと感じるエッセンスを取り、エッセンスを配置しなおし、パッケージし、カテゴライズし、ラベリングするという行為をすぐにやってしまっている。
僕は別に評論家やコメンテーターになりたいわけでもないので、そういう方向に人生の舵を取るつもりはない。出来れば色んな物事を見て新しく感動し常に何かを好奇しておきたい。

前置きが長くなったが、そういうことで新たな感動を求め、大阪市立美術館のデトロイト美術館展に行ってきた。
「大西洋を渡ったヨーロッパの画家たち」ということで、デトロイトにあるモネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ピカソなどが見れるという展示会である。
大阪市立美術館の立地は通天閣と天王寺動物園に囲まれているというなかなかシュールリアリスム的というか前衛的というかシムシティ的というか、子供が作ったような塩梅の立地である。ゴッホを見て、フラミンゴを見て、串かつを食べるみたいな觀光も可能な立地である。

まず作品の前口上として、僕の芸術的知識はそれはそれで貧弱なモノで、本を何冊か読んで、緩い知識はあるものの(2時間でわかる西洋美術史と食から導く西洋美術みたいなのを読んだ)基本的に何も知らない。
こういうときの作品に向き合う心構えは、感じるか感じないか?である。
いくらゴッホであろうがルノアールであろうが、もしそれらに感じず、自分が感じたのが無名の作家であれば、その無名の作家の絵を賞賛しようというスタンスだ。
世界的な名作だからということで評価はしない(そもそも出来ない)

結果から話すと。巨匠と言われる彼らの作品を見て、めちゃくちゃ感じた。
僕らは日々スマホだのパソコンだので、気軽にそういう美術作品を見たりし、なんとなくそれらの作品群を見たような気になるが、本物が持つ荒々しさ、力強さみたいなものを目の前にしたら、不覚にも圧倒されてしまった。
芸術家ひとりひとりが、極貧のなか、筆先ひとつで、自分と向かい合い、それを作品にぶつけるというアウトプットに振れ感じることは多かった。
モネの光の使い方と艶やかな色彩の使い方に心奪われ、ゴーギャンの挑戦的な不敵な視線に心がモヤモヤし、キルヒナーの冬景色に一瞬自分がどこに居るのか分からずに混乱してしまった。

そして途中からクロノロジカルに作品が見たいと思い、また美術館の入り口に戻り、すべての作品を作家ごとに発表年月を見ながら作品を見なおした。
時代的に何が流行って、何が廃れていったのか。
また彼らは10年の時の間、何を捨てて、何をとったのか。別の言い方をすれば何を伝えようとして、何を伝えなくなったのか。
そういうのを作品を見ながらジッと考えることになる。
もちろん僕にはどれが彼のオリジナルで、どれが時代のスタイルなのかの見極めはできない。そして多くの作品が分散して配置されてるものだから(1フロアがフランスの印象派で2フロアがポスト印象派でみたいな分け方)なかなか垂直的に物事考えることが出来ないが、それでも新しい感動がそこにはあった。その取っ組み合いしたであろう作家のアウトプットに振れ、人が人生を生きる熱量と質量を感じることになった。

もちろん感じない作家も多く居たが(並んでいたピカソやセザンヌには)それ以上に感じる作品がとても多かった。
いつもスマホで気楽に誰が作ったのか書いたのか分からない文章や作品に振れ、そしれそれはインスタントな感動を求めるなか、こういうような真剣に彼らの人生と向き合い、彼らのアウトプットに振れる時間はいつもとは違う体験である。

日々感動が減るなかで、感受する部分を出来るだけストレッチしておくこと、そのためには新たな物事に積極的に触れるようにする。触れるときは先入観を一旦脇にどけておくのが肝要なのかもしれない。
そしてもちろん帰り道に串かつを食べながら肖像画のゴッホは怒りなのか苦悩なのか喜びながらを考えながらハイボールを飲んだ、そういう時間もまたハッピーである。
まあ通天閣の苦悩はまた彼らの苦悩とは別の質量ではあるのだけども。

雑感-どんな毎日を過ごしたいか?

もし神さまが僕の目の前に現れて、
「明日からどんな毎日を過ごしたいか?」と問われたら、
出来るだけ毎日全てを出しきって何もできないぐらい疲れる毎日を過ごしたいと回答すると思う。

どれぐらいのぐったり強度って?つづいて神様に聞かれたら、ドラゴンボールで「宇宙船でナメック星に行く悟空のような毎日を生きたい」と答えてもいい。
もうこれ以上できまへんわ。もう目もあきませんわ。ぐらいのところの毎日を生きたい。
おし、オレは手を尽くした。これ以上は出来ないと思いながら毎日床につきたい。

とはいえ僕はこの1年ぐらいはそんな日々だったように思う。過去を美化してるかもしれないけど、自分としてはとてもとても「大変」だったし「もう勘弁してくれよ」と思うことばかりだった。毎日家につけば、もう何も考えられまへん。みたいな感じになる毎日だった。
ただ今あらためてそれをふりかえって思うのは「しんどい」とか「孤独」とか「大変」とか「無理難題」みたいなことは「ぐったり」の必要条件な気がする。だって悟空が「うわ、宇宙船孤独だわー話し相手欲しいわ」「修行めっちゃ辛いわあ、誰も見てないし今日サボろかな」みたいなことは言わない。手を尽くすには尽くすだけの課題があり、難題がある。それは手を尽くす日々の条件である。

もちろん手をつくしたからといって全ての取り組みがうまくいくわけじゃない。手を尽くせたと思えた日はゆっくりと眠ることができるし、今日は何も出来なかったなと思うと、なかなか寝付けない。そういう日々だ。
ワクワクもするし、落ち込んだりもするし、笑ったりもするし、悲しんだりもする。大変すぎて5分前の事が思い出せなくなったり口臭がきつくなったりもする。そういう日々である。

そんな日々を生きてるけれど、もしかしてそんなことをしても、それはどこにもたどり着かない所為であり、何の意味もない行為であるのかもしれない、一人でなにしてるんwヒトカラかなんか?w。みたいな事かもしれない。でもさ、そうしないと僕は日々の手応えも実感を持てないので、それしか人生において選びようがない。他にHAPPYな選択肢があれば迷いなくそれを選択する。毎日お酒を飲んでるだけで、原っぱに寝転んで空見てるだけで幸せだなあって思えるなら、原っぱに寝転びながら大五郎をラッパ飲みの日々を生きる。
他に選びようが無いだけである。

 

 

そしてもうひとつの手を尽くすために条件がある。

・手をつくしたいのは何か?

イチローであればバットをコントロールすることに手を尽くし、羽生さんであれば相手の王を追い込むことに手を尽くそうと決めたはずだ。

自分には何があるのか?

それについて自問自答するのだけど、わりと何をするにもそこにおかしみを見つけて日々コツコツと改善をしてきたように思う。特に何がだから頑張れないとかはない。
ただそれでも昔を振り返って手を尽くせたことを考えると、僕は昔飲み会がとても好きだったのだけど、その飲み会がなぜ楽しかったのというと、まわりが楽しそうなら自分も楽しいというのがある。そして飲み会の自分勝ち負けルールがあって、飲み会終わりに誰かから「うわ、この飲み会つまんねっ」って言われたら負けで、「今日の飲み会で井上くんめっちゃ面白かった」って言われても負けで「この飲み会のメシうまかったね」って言われたら同意で、「井上さんってチュートリアルの福田さんに似てる」と言われたら無視で、「この飲み会って何かわからないけど面白かった」って言われるのを勝ちにしてた。

そういう誰かだけにフォーカスが当たらないように(自分が回してるとも思われず)各々が各々で楽しめるような場に居るとHAPPYなキモチになる。これは今でも同じである。今でも飲みに行く相手と合う話題を考えてから飲み会に行くようにはしてる。

別の言葉で自分が楽しいと感じることを言い直せば、それは誰かと誰かが結びつき、それで当人たちが楽しいって感じてるのを横で見てるのがとても好きなのだ。逆に言えば誰かが不愉快そうにしてたり、イライラしてるのを見るとそれだけで、気分が落ち込んだりするし嫌なキモチになったりする。これは性格である。

そして今回その条件を達成できるような新サービスの取り組みを進めた。
hidekiでもAnnaからの流れよろしくで、今度も「おしゃれな人」と「オシャレが苦手な人」を繋げるサービスにチャレンジしたい。オシャレな人もオシャレが苦手な人もニコニコするようなサービスにしたい。
メンズファッションレンタルサービスleeap(リープ)

サービスの中というか実情は、これでもか。これでもかとファッションが苦手な人が喜べるような仕掛け(という言葉を使いたくなけれど)を施した。もし今までファッションが楽しくないと思ってる人も当サービスを利用いただければ、オレに似合う服ってこれだったのかああ→ファッション楽しいかもの体験を味わっていただけるようなサービスを作ったつもりだ。
1ヶ月7800円にて毎日が楽しくなるかもしれないと感じるサービスになるようにと。
リアルに存在する人が喜ぶすがたを想像しながら、その人がニコニコするように考えてサービスを作りこんでいった。
そのような取り組みが多くの人のHAPPYになると良いのだけれど。
ぜひとも一度サービスを試していただけると嬉しい。

最後に立ち上げに当たり、本当にいろんな人の協力があり感謝を述べたい。
みんなの協力がなければ、サービスはとても立ち上がらなかったと思う。
そして僕もきっとここまで頑張ることはできなかったはずだ。
心から感謝を言いたい。ありがとう。

そしていま僕は自分だけの改善からみんなで行う改善にチャレンジをしている。
それはとても幸福な体験である。
自分がいちばんに望んでいることである。
引き続きみんなと一緒にチャレンジをしたい、多分そういう泥臭い営為でしか「毎日ぐったり」を得ることはできないようはずだ。目の前のタスクに集中しながら出来るだけ目線は高くもちながら「ぐったり」に生きたい。
多くの人がHAPPYになるようひきつづきチャレンジを進めますので、ひきつづき宜しくお願いいたします。

井上大輔

雑感-人生が楽しそうな人の特徴

僕は仕事柄、いろんな属性の人と話すのだけど新しい人であれば、誰と話してても楽しい。凄い人であろうが、凄くない人であろうが。その人のナマの声が聴こえるとそれは純粋に楽しい。そうか、こういう時にこう考えるんだ。という発見が楽しい。

とはいえ、その中でも、この人は毎日楽しそうだなあ。感じる人が居る。
今回は、そんな人の特徴を紹介。

先日お話してたのは(正確にはインタビュー)藍家さんという職人の方で、人生がとても楽しそうに見えた。

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もう19年間職人としてお仕事をされていて、とても楽しそうに仕事をしてる。
素人見解の域を出ないが、藍家さんの仕事現場の評価を拝見し、実際の現場の進捗を確認したが、質、速度ともに非常に高いレベルであった。他とは群を抜いてるように見える。その仕事が異常に進捗する秘訣のインタビューをしたのだけども、その時に言われたのが「まず設計図から現場全体を想像する。現場ではそれを頭に入れて実際に組み立てる」ということだった。いかに全体を見て、どのように細部に落とすか。僕はそういう仕事を楽しいとは思わない人間なので、なるほど。そのような楽しみ方があるのかなと素直に感心してしまった。
もうひとつ面白かったのが、内装工事業の面白いところは?と聞いたところ「終わりがあること」ということだった。
これも自分の発想としては無いモノだ。基本的に僕のような仕事は永続する。おそろしのゴーイングコンサーンである。そんなふうにずっと改善を続けるのが僕の仕事なので、そういう風に考えると、そういう終わりのある仕事という視点で仕事のあり方を考えることができた。終わりがあるから、仕事の検証がしやすい。終わりがあるから、仕事の動機づけがしやすいなど。なるほどなと。

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彼女も常に笑顔である。
学校の先生(非常勤)とアパレルの仕事のWワークで。ほぼ休みが無いとのことだったが、とても楽しそうだった。
大変じゃないの?と聞いたところ、まあ私以外もみんな大変ですよね。そして思ったよりいけますよ。どっちもやりたい仕事なので、どっちも楽しい。ということだった。
仕事の忙しさは関係ないと思うけど、最近イケメンが好きで。とのことだった。まあ日々はハードにやってれば色んな思いがあるだろうけれども、傍目には楽しそうである。

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そして高田さんである。凹んだりもするけれど、私は元気です。の心境の高田さんで。
あまり多くを語りにくいので、ふんわり書くとやはり根は楽しそうに思う。凹んだりもすると思いますが。

色んな人と毎日話したりするのだけど、日々楽しそうな人の特徴はよくある話で。
・愚痴を言わない
・(あまり)他人と比較しない。
・笑顔がステキ

あとはなんだろうな。「本当は家でゆっくりしたいんですけどね」と言う。ってのも、あるかもしれない。

でも僕は自己啓発のような文章を書きたいわけじゃないので、観察して、何もそれに対する見解を書かずに決断を放り投げて文章を終わろうと思う。特に見解やこうすべきみたいなことは無い。
その人達は人たちで大変な思いを沢山抱えてるように思う。

ただ、でもそのような人は基本的に人生でリスクをテイクをしてるように思う。能動的に人生を生きてる。他人の価値観で仕事をしていない。自分で何かの軸を持って選択してる。そして僕は日々改善をしている人が大好きで、日々のプロセス改善が楽しいと思えるかが人生を楽しめるかどうかのコツのように思ってる。そして楽しそうな人はそのようなコツを掴んだ(掴もうとしてるか)人だ。それが楽しそうな人の特徴かもしれない。

そして僕はそんなコツを知ってる人と仕事がしたい。
そんな人たちに負けないように、まわりが楽しそうな人ばかりになるように、僕も高いパフォーマンスを発揮できるように日々頑張っていきたい。

雑感-アツくないリーダーのモチベーション

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自分はリーダーとして仕事のやり方とか心構えに対するこだわりというかスタイルへのアツさを持ち合わせていない。
こうすべき。みたいな事はあまりに希薄だ。

例えば若い子と話してて「若いうちは遊びに遊びたい」って言っても、まあそうだよねー。みたいにウンウン頷いてるし、
知り合いが「仕事ってしんどい」って言っても、まあ仕事の9割はしんどいよね。わかるわーという感じだ。
基本的に反論は特にない(しないではなくて特に無い)

自分とは違う意見や、それはダサいだろって意見を聞いたとしても、特に「バッキャロー」もなければ「ふざけるな」も無い、怒声もなければ罵声もない。机を叩くこともなければ(手が痛そうだ)皿が飛ぶこともない(片付けするのは僕だ)静かに意見に耳を傾けるだけだ。
僕としては、この世は多様な生き方が許される世の中であってほしいなあという思いがあって、そんな考えだから、スタイルに対してのアツさは無いのだろうきっと。

ただ自分で自分を省みて、自分のどこを探してもアツさは無いけれども、自分の内部にしっかりと恐れはある。全体がビリビリと振動するぐらいの恐れがある。これは年を取る度に大きくなってる。
昔はそれが「怖いかも」ぐらいの恐れだったのが、今は「恐ろしい」に変わってる。
恐れの原因はひとつだ。
それは自分が作りたいと思ってるモノが作れない可能性、
自分が達成すべきであろう課題が達成できない可能性に僕は怯えている。

僕にはやりたいことがあり、作りたい世界観があって、それが万が一にもつくることが出来なければと考えると恐ろしくて仕方がない。それはできたらいいなとか、夢が叶うとかじゃなくて、出来ない可能性なんて考えられない類のモノだ。大きなオブセッション(観念)として自分にベッタリと張り付いてる。これ剥がせないの?って何度も思ったけど、どうも剥がれないようだ。

そのためそれを達成するために全てが最適化されている。どれぐらいがやり過ぎでどれぐらいが休み過ぎなのか、どれぐらいの持続力とどれぐらいの集中が必要なのか。すべてをそれが達成されるために最適化されてる。いつかを振り返って「もっとこうすれば良かったなあ」と思う可能性は完璧に排除しておきたい。

そのため僕はいつも願ってる「僕の全てを差し出すので、達成させてください」と。キリストでもブッダでもなんでもいいからお願いしますと。ムハンマドでもジム・モリソンでも何でもいい。そして神かロックスターが僕の前に現れて「OK、叶えてあげるけど一生徒歩で給料18万ね」と言われても「一生タートルネック着用ね!夏は半袖のタートルネック」と言われても問題ない。
叶えることが出来るのであれば真夏に半袖タートルネックを来て海の家で焼きそばを食べるぐらいはなんてことないのだ。

恐れを持つリーダーも良いところはある。
仕事を進めるにおけるメリット。
それはモチベーションが冷めないことだ、熱は冷める、アツさでモチベートを維持すると大きな維持コストが必要とされる。常にエネルギーの投下が必要である。その分恐れは冷めない。常に恐れはそこに存在する。達成されるまでは永久運動のように稼動は約束される。
もうひとつは謙虚になれることだ。常に自分を疑ってかかる。自分を信用しない。自己懐疑は仕事をするにとても有効的な手法に思う。健全な懐疑。何か考えきれてないことがあるんじゃないか?と。楽観しても安心しない。

そして恐れを感じていたとしても、別に苦行をしたいわけじゃない。
まわりは笑顔で居て欲しいなと思ってる。みんなの笑顔がキープできるようギリギリのラインで仕事にチャレンジして、楽しみながら成長して欲しい。達成を目指す道中を楽しむ(プロセスを楽しむ)というのは達成における必要条件なのだ。
僕は基本喜びに溢れて、何でも楽しいと思ってしまうので、そういうのはリーダーとして怯えて震えながらも前面に出したいところだ。ときに、引きつり笑いだったとしても。