雑感-墓の近くに住むメリット

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できれば人生を通して色んな所に住みたい。
そのため今までも出来るだけ以前と違う住環境を選択していて都会から山に住んだり、川の近くに住んだり、湖の近くに住んだりしてきてのだけど、折々の四季が毎日の移動やランをカラフルに彩ってくれてとても楽しかった。一度の人生で4度美味しいみたいな感じでとても楽しい。
今まで住んでみて2回りぐらいの四季を見て、ようやくその土地の少しの腹落ちがあるような気がする。ここってそういう土地なのか。という。
ちなみにだけど、そのなかでもういちどどこに住むかと言われたら川の近くかもしれない。1日で川の流れを見るのはホッとする時間で、まあぼちぼち頑張ろうかなという気持になる。

さて今、どこに住んでるのかというとタイトルのとおり墓の前であります。
本当は海の近くに住みたかったが、仕事が忙しく、移動が無理めで諦め。
以前も墓の近くだったんだけど、今はもう墓の近くというか、目の前が墓であり、目の前だけじゃないな180度パノラマで墓が眼前にひろがる。目が覚めたら墓で、寝る前も墓である。
そんな墓ライフ。そんな生活をご紹介。

メリットとかは色々あるんだけど(家賃は安い)
一番は「諸行無常感」を感じることである。
そうか、みんな毎日ニコニコ話してるけど、結局は誰もが終わりを迎えるタイミングが来るんだなあ。どんなふうにやっても、やらなくても、何かを成し遂げても成し遂げなくても、まあみんな結局は終わるんだなあと体感する、視覚的にというかフィジカルに生々しく体感する。
そして50年も経てばざっくり半分の人がこの世から居なくなって、100年も経てば、ほぼ全員の人がこの世からいなくなることを思う。全ての人が一巡して、全ての脳がリフレッシュされる。
ちなみにそんなことを思ってると、他人から自分ががどう思われるかが、あまり気にならなくなった。
だって、どうせ100年後には何を思っても、誰もそのことを覚えてないんだろうと。

ただデメリットは、何か悪いことはしにくい。
悪いというかさ、日々、ランニングしてると、腸が刺激されるのですね、すなわち、言わなくてもわかると思うけど。オナラが出そうになるのね。
でもお墓でおならをしてもいいのかな?ってのが毎度思う。こんなに大量の人が寝てる前でおならしてもいいのかなと。
まあ、それを考えても、結局するけど、なんだったら何回もするんだけど、わりに気になるもんであります。
ただおならぐらい自由にさせていただきたいと思う人には墓ライフはちょっと向かないかもしれない。

あとよくあるのは。霊的な話でしょうか。僕は皆さんと同じく霊を信じないタイプの人間なのですが、いや信じないというより、
正確に言うと、どっちでもいいと思ってて。別に居てもいいし、居なくてもいい。僕に悪戯したり、足を引っ掛けたりしてこないならどっちでもいい。
居るかどうかは死んでから考えようというスタンスで(考えられるんですかね?)まあ何か見えるのか?と言われるともちろん見えず。見えるのは星の綺麗さだったり、墓を駆けまわる猫だったりぐらいのもん。

ただスピリチュアル大好きな人から言われたのは、墓の近くに住むというのは良いことらしく、特に金運がよくなるらしい。
まだその金運の兆しは全然見えないけど、こんなにその兆しって見えない?ってぐらいに見えませんが、まあ運が良くなるのであれば文句を言う筋合いは全然ない。しっかりとそのアドバイスを吸い込みたいなと。

そんなお墓ライフでありますが、とても静かでオススメ。
色んな人から色んなことを言われますが、よろしければ。

雑感-普通の顔の定義

普通の顔の皆さん、こんにちは。
普通の顔(多分)のイノウエがお届けする普通のブログです。どうぞよろしく。

日々、世間話程度に女性から恋愛相談なるものを受けることが多いのだけど、彼氏の居ない女性から「彼氏が欲しい」からの「どんな男子がいいの?」で出てくる男子という基準で一番多いのが「普通である」ことに最近気づいた。
流れとして、
井上「どんな人がいいの?」
女子「普通でいい。普通の顔で普通に喋れたらいい」
井上「どれぐらいの顔?」
で出てくるのが、
・オードリー若林
ぐらいが出てくる率たかし。
俳優だとあまり知らないのだけど、
・田中圭
とのこと。
それをパソコンの画面に映しながら「これがいかに普通の基準を上回っているのか」を彼女に伝えることは可能なのか?多分ムリだ。彼女は夢想しておる。でも多分不可能でも、いやほぼ不可能に近い位置するのかもしれないが、それは誰かがやらねばならない。現実の標を俺が打ち立てる必要がある。そしてそれは俺しか居ないのだ。

というわけで
僕は色んな例えを使って、彼らが以下に優れた顔面の持ち主かを伝える。
彼らは偏差値で言えば軽く60オーバーである。
関東で言えばMARCH、関西でいえば関関同立ランクを普通と言っておる。
関西の野球で言えば、堺東とか金光クラスである(履正社や桐蔭ではない)
ゲームで言えば、バハムートラグーンとかキャプ翼4ぐらいに位置する。名作ではないかもしれないが、どうみても佳作である。

ちなみにたまに星野源とか嵐櫻井くんとか出てくる始末・・。それ名作やないかと、現代が産んだひとつのカテゴリに位置する星やないかと(掛けたわけではありません)
あんな優しそうな顔が家に居たら、どうやっても和む。常にこたつと餅と猫と無印クッションが家にあるようなモノだ。いやパルム(アイスね)と熱帯魚ぐらいつけてもいいかもしれない。
尺度評定を外さないことで定評の僕が普通がどれぐらいかを伝えさせていただく、学校の20人クラスの丁度10番目に位置する、びっちり普通を定めさせて頂くと。
芸人なら
・パンクブーブーのでかい方

ウーマンラッシュのコミカルな方

・カウカウのよしくん

よしくんは少し男前寄りですが、ぽっちゃり含めて、平均と設定させていただきたい。
オードリ春日も男前指数57の強者です。あれは超イケメン漫才コンビと考えて頂いて間違いない。東野幸治さんも普通の顔かなと思う次第です。はい。
俳優は全然知らないけど、新田(新太?)さんとか、生瀬勝久さんが中間でしょうか。ちょっとイメージまで判定できないので、こちらは自信がありませんが。

色んなテンポと口調と語彙を用いてフツメンを伝えたのだけど、伝わってるのかあまり自信が無いけど。そのように伝え終え。

あと相談聞いてて思うのだけど、上述の普通に話せたらOKというのがあるが、普通に話というのが男女に大きな隔たりがあるので。
こういうのもイチイチ言語化した方が良い。
女子の話すは、すなわち「話を聞く力(ヒアリング力)」「相槌を打つ力(型踏襲力)」「裏を読む力(機微察知力)」の3つが必要だ。
この3つを備えてる時点で男子として有能である。
出世はしないかもしれないが、少ない能力の持ち主である。
比べて男子の喋るというのは「オチを付ける力(笑わせる力)」を持つかどうかが話せる力となる。そして笑わせも多様な術の多くをいうのでまた難しい。

そしてそこに年収も500万でとか言い出すと、そんな男が居るのか。
そんな男が普通に居て、それで今もフリーである確率なんて、0に近い確率ではないのかなと。と思う次第です(プラス、今彼氏が欲しくて悩んでる人を選ぶのかという厳しい問題も合わせて提示されます)

ただ思うのだけど、逆に男子はあまり「普通」が良いというのは言わない。
はっきりとこれがいい。というのをよく聞く。聞く一番は「綾瀬はるか」に類推されるタイプ。
それって凄く最近の男子的だなあと思うのだけども、まあまたの機会に。

あと女子にオススメしたい良い男子の見分け方なるエントリーも書きたいが。飲んだ席の話のように思うが、そんなことも機会あれば。

雑感-古典を読む効用

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スコット・フィッツジェラルドが
「他人と違うことを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」と言った。
確か、これは村上春樹が30歳の時に、デビュー時に「風の歌を聴け」で受賞の言葉で引いて、僕も40歳になるまでにまともな作品を書きたいと締めた(と記憶してる)

いまフィッツジェラルドを読む人が多いのか知らないのだけど、僕は基本的に古典小説を中心に読む。
古典を読む理由はシンプルで、当たりの率が非常に高いからだ。
だって今、50年前の凡百な小説が僕の目に現れる可能性は少ない。その小説が50年もの長い歳月の検証をくぐり抜けるは、簡単じゃないはずだ。

ただ古典にはその当たりの率が高い以外にも良きメリットはある。それは噛みごたえのあるフレーズに出会うことが多いのもその理由だ。
冒頭のフィッツジェラルドで言えば、彼は「この世界にはあらゆる形の愛があるが、同じ愛は二つとない」と言った。
これを聞いて、皆さん、そう簡単に納得出来ますかね?
僕は全然できなかった。
こと恋愛に縛っても同じ愛も多数あるだろうと思う。どこかの街の合コンで始まった恋が毎度唯一無二なら、ちょっとそれは疲れるのではあるまいか。インスタントな恋もそりゃあるのではないかと。

そんなことを思いつつ、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでると「幸福な家庭はどれも同じだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」という文章に出会う。トルストイ最高、ただ髭が長いだけじゃない。フィッツジェラルド分かってなかった。と感じた。その仮説は示唆に富んでる。このトルストイのフレーズだけで一晩ぐらい思索に耽ることは可能ではあるまいか。

そんなことを経たりしつつ、数年後、またフィッツジェラルドの冒頭のフレーズを読んだのですね。
でもですね。数年を経て、その言葉に出会った時に、僕は全然違うことを思い、
それは「なぜ彼は「同じ愛はふたつとない」なんてことを言ったのだろう」と。

俄然、フィッツジェラルドに興味がわき、彼がどんな人生を経て、小説を書いたのか、毎度出てくる破天荒な女性のモデル(ゼルダだ)そしてどんな生活をしてのたかと。
そして彼の小説における大きな疑問のひとつは「なぜ、彼はここまで美しい文章を書く必要があったのか?」というのはみんなが感じるに思う。彼の小説はひとつひとつの描写が本当に美しいのだ。
人物も建造物も所作も、彼の手に掛かると全てが美しくなる。そしてすべてが艷やかで華やかでドラマチックだ。そしてそれでいて全体的なトーンはとても物悲しく儚い。
僕は彼が生きた時代はあまりに華やかだったことを知る。常に彼は喧騒の中に居て、その中での生活を愛したのだろう。そしてそんなドラマチックな時間は長くは続かない、それらは限られた時間軸の限定された期間にだけ許されるたぐいのモノだ。そして気づけば、その音は過ぎ去ってしまう。もう喧騒は遠くにある。そんな華やかな時代を生きた彼は、そしてそれらが終わることをしっている彼はすべてを美しく書く必要があったのだろう。
そう思うと彼の冒頭の「同じ愛はひとつもない」という言葉は、そう生きざる得なかったフィッツジェラルドの生きた言葉として僕らの胸に突き刺さる。とても正直な心持ちとして。

最後に、彼の最高傑作と呼び声が高いグレート・ギャツビーから引用しよう。
グレート・ギャツビーの冒頭の言葉である(折角なので野崎訳じゃなくて村上訳で)
 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

是非古典を手にとって見て欲しい。
とても滋養に満ちた世界がそこにあると思うのだけど。

雑感-任天堂について今おもうこと

7月11日、任天堂の岩田さんが亡くなるという訃報を聞いてから、何だかモヤモヤが続く。
ありのままに言えば、とても、とても悲しい。

誰かと岩田さんについて話しても、僕が話したいことは話せないだろうから、何も言わず、貝のように黙って、静かに時が過ぎるのを待ってる。
そんな心境ではあるが、任天堂について語ろう。ここで語らないと今後語れないような気がするのだ。

先々月、仕事で京都のある大学を訪れて、その帰り道に任天堂本社の横を通り過ぎた。
そのとき車で移動してて(それも男5人で車中だ。何て日だ!)で僕が「任天堂についてなら何時間でも話せますよ」と言ったところ、「車中ヒマだし、話してみてよ」と言われ、「本気で話しますよ」と言って20分ぐらい話した。
でも僕としてはフルパワーの1/10ぐらい、仕事上だもんでビジネストークというかリップサービスというか、誰にでも分かるようなところでの話に終始した。
まあよくある話だ。ファミコンからSFCのチャレンジ、山内さんのゲームボーイ伝説、64とGCの苦戦、そこからのリベンジ、任天堂を知る人なら誰でも知ってるであろう話だ。
少しプラットフォームの話やアタリの話なども散らせつつの話とした。

ただ僕が語りたかった任天堂の凄さは、いや今でも任天堂が好きなのは、岩田さんが任天堂の社長になってからだ。
僕はその前の山内さん時代の任天堂が好きじゃなくて、岩田さんが社長になってからの任天堂が好きになったのだ。
そのへんの心境をボヤカして語ってしまい車中の男5人語りは何だか片手落ちな話になってしまった。

とはいえ僕はそこまで任天堂に詳しくない。
フルパワーで語ったところで、任天堂の歴史に詳しい人が聞けば鼻で笑われるような内容だと思う。
インベーダー時代も知らないし、アタリショックなんかもこの目で見たわけじゃない。本で読んだだけだ。
山内さんの伝説も最近になって知ったことが多い、実はタクシー屋とか、そんなのも最近知った。
僕はコロコロとファミコンというメディアミックスに踊らされた一人の小学生だった。高橋名人の連写に度肝を抜かれ、俺のほうが本当は早いけどなと調子にのって、ディスクシステムの黒いフィルム部分を度胸試しと称して触って何枚もダメにしてきたような小学生だった。
任天堂が好きなんかじゃなくて、ただのゲームが好きな少年だった(いや、もっと言えば、中学と高校はSEGAが好きだった)

そしておとなになってから、改めてゲームについて色んな情報を漁るうちに、任天堂のロイヤリティビジネスの高度さに驚き、任天堂はなぜROMにこだわったのか、なぜSFCはあれだけ発売されなかったのか?それらの結果からどれだけメーカーが苦しんだのか、小売が在庫に苦戦したのかなどなど色んな任天堂ビジネスのひずみを知った。少年時代に純粋に牧歌的にゲームを楽しんでた裏で色んな大人の闘いがあったんだなと。まあサードパーティとの上手く行かなさは今でも任天堂の代名詞みたいなモノに思うが。まあそれでも。

話を元に戻そう。
なぜ任天堂が好きなんだろう。
それは岩田さんと通じて、任天堂の志を知ったからだと思う。ただのゲームと認識してた会社が、岩田さんの口から何をしようとしてる会社なのか語られてからだと思う。
ほぼ日の企画や、E3での岩田さんが登壇してるプレゼンを見て聞いて、そうこうしてると任天堂のイベントで岩田さんの話には必ず目を通すようになっていた。
ゲームを楽しんでもらおうとチャレンジする姿勢と理由、それをそれを僕らにも分かるような言葉で丁寧に説明してくれたのは岩田さんだった。
自社のゲームについて語るゲームクリエイターは多数居ても(もちろんそれはそれで素晴らしいことだ)、これからのゲームビジネスの未来を考えて、ゲームのビジョンを考え、そしてそれを何度も何度も色んな語り方で色んなテンポで色んな場所で語り続けてきた人は岩田さんしか居なかったように思うのだ。とても穏やかで、とてもやさしい口調で。
それを聞いて、僕たちは未来のゲームについて考えることになる。自分はどっちの未来が良いんだろう。これからのゲームに何を求めているのだろう。と。

これからのゲーム業界を考えて、ゲーム業界はとても偉大な人を亡くしてしまった。その喪失はあまりに大きい。
言い古された言葉だが、惜しい人を無くしたという表現しか思いつかない。本当に惜しい人を無くした。
ただそれでも時計の針は進んでいく。そして今任天堂以外にゲームの未来のビジョンを描き、実践できる会社はいない。良くも悪くも。まだ任天堂には岩田さんの志を継承して、チャレンジしていってくれると信じて、これからも任天堂を応援したい、何とか岩田さんのビジョンを体現できると信じて。

岩田さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

雑感-年を取って変わったこと

人は年齢を重ねることで、どのような心的な変化を迎えて、どのように優先順位が変わるのか?というのは昔から興味があるトピックのひとつであって、ブログでも度々そんなことを書いてきたように思う。
みなさん、どうですか?昔と比べて何か心的な変化はありましたか?

まあ色んな変化のうち、多くの変化は年齢の変化に見せかけた環境の変化というのが変化の主因だと思うのだけど(例えば結婚や引っ越しや子育て)自分としては、これは年齢による変化として、自己顕示やら自分の希少性アピールみたいなのが、大きく減退傾向にあるなと。
そう感じてきたわけです。

例えば子供だったら
・スポーツできる。
・喧嘩つよい
・ゲーム上手い
などで自分の希少性をアピールをし、

もう少し大人になると
・誰も知らない音楽聞いてるおれカッケー
だったり
・皆が持ってないNIKEのスニーカー履いてるオレヤバい
だったり、
・一眼レフで写真を撮るワタシの感受性すごい
などなど。
そういう希少性を内外ともにアピールしちゃったりして、自分は他とは違う固有性を大きく出すわけですね。
オレは他とは違うんだよ。という感じですね。

もちろん差異というのは別の言い方をすれば有能さであったり希少性による重要度を上げてくれるわけで、アピールすることのメリットがあったりするので、若者がアピールするのは色んなうえで有効だと思うのだけど(友達作りでも恋愛でも)僕の場合あまりそれによるメリットって無くて減退にあるわけだけど(経営者ですとか分かりやすいレッテルだし)多くの人にとって希少性は必要だけども、あまり希少性を出すための時間が取れなくなってしまって、加齢とともに即物的で安易な代替案を取っていくになっていくのではないかなと思うのですね。

例えばなんだけど、
・とりあえずブランドを買う(センスのあるブランドを持ってますよ。というのがすぐに分かる。センス希少性)
・とりあえず高級な車に乗る
・とりあえず目立つことを言う
・とりあえずヒョウ柄を着る

というように回りくどい希少性よりも相手に瞬間的に希少性が分かるようなアピールに変わっていくのではあるまいかと。思ってるわけで。
本当に希少性に関係なくて好きなモノは、ここまで来ると結構な領域に達していきますよね。もう趣味を超えて、糧とか生き方みたいなことになってる。(どっちが先かは難しいのだけど)一眼レフを20年持ち歩いたら本物ですよね。
安易に希少性があると思われるのはとても大事なことで、もしかしたらすぐに健康話(いかに不健康かの話)をするのもそこらとリンクする話かもしれない。

話を自分に戻すと希少性アピールをしたくない今、どんな嗜好を言えばいいのか悩むんですよね。
(自分の加齢と共に変遷した嗜好は何かというとって書こうと思ったけど、それもアピールっぽいので自粛)
例えば車なんて本当に興味無いのだけど、「車なにが好き?」って聞かれると困る。
何が好きか?と言われると「ベンツ最高シリーズ」とか好きですがベンツのイメージの色がつきすぎてサワレナイですし、かといって「カローラ」と言っちゃうと大衆な感じをアピールしてるようで辛い、とはいえ「ワーゲン」とかなるとサブカルな感じでオレごときがサブカルなんて恐れ多く、ならばとなると「ボルボ」とかなるとオレがボルボてwwというところで、何を言えばいいんだろう、フィアットとか、ヒュンダイとかですかね。色がついてないのを言って早く話を(自分の話を)終わらせたくなるという衝動に駆られ、まあ困る。そして掘り下げられるともっと困る(なぜフィアットですか?と聞かれてもフィアットがどの国の車かなのすら知らない)

ただ自分の得意ジャンル(時間を投下してるジャンル)であってもやはりあまり言いたくなくて、本どんなの好き?とか言われると、第三の新人の吉田信弘とか好きですねとか言う(でっちあげ、そんな人存在しない)
もしかすると希少性というより自分の話がイヤってのがあるのかもしれない。自分の思考のプロセスを言うのは大丈夫なんだけど(好きなんだけど)自分の嗜好を言うのは苦手なだけの話かもしれない。
あと年齢を重ねると希少性アピールをニコニコ聞けるということがある(昔なら本当に詳しいのか掘りさげてしまってた)それも大人になる心的な変化かもしれない。

雑感-テクノロジーの進化はどこまで必要か?

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子供のころ読んだドラえもんぐらいから喚起されてきたお題ではありますが、この10年ぐらいのテクノロジーの進化で僕らの生活はどれほど良くなったのかなと。
とはいえ、今更テクノロジーの進化の不要性を叫ぶなんて、ナイアガラの滝とか、巨大扇風機の前で「資本主義反対!!!!」とか「恋愛結婚禁止!!!!」を叫ぶみたいなモノで、誰にも届かず、まあどこにも辿り着く話じゃないというのは重々承知である。

でもさ先日のニュースで「1分でスマホが充電できるバッテリーをスタンフォード大学が開発」というニュースがあり、これには省電力の観点やら医療用機器に使えるなどの用途もあるとは思うのだが、自分としては、そんなことになったらイヤだなあと。
スマホの充電が切れて、ようやくスマホから開放される瞬間、たまにどっかで充電が切れてくれる有り難み。スマホの充電が切れる画面を見ると、永久にお休みな。もう二度と立ち上がらないでくれ。みたいな感情を抱くことってあって、もうみんなが選ぶニュースとかSNSとか要らない。いつ開いても神経症的にしつこく、眠らないタイムラインを見てると、心底ウンザリしてくる事がある。見なければ良いということなんだけど、まあ見ないとなあ。という感じだ(スマホから仕事の情報は全部確認出来る)

今までのテクノロジーの進化の定方向といえば、
・もっとハイパワーに
・もっとスピーディーに
・もっと低コストで

という進化を元に、
・あらゆるモノがデータに変換する
・あらゆるデータがどこでも取り出し可能になる

という拡大をし、それにより我々は「時短」「便利」「ローコスト」などを享受したきたのがこの10年だろう。
ただそれのデメリットをこう考えてみるといろいろある。
今気づけば、今までのいくつかの選択は減ってしまった。
音楽はプレイリストからシャッフルになってしまった。
まだ自分の読書ライフにテクノロジーを介在させていないのだが、以前友人にKindleを借りて使ってみて、これはちょっと本を持つのメリットよりもテクノロジーが勝ちそうだなという印象をもった。
こうなると、多分だけど本は捨てる選択肢はなくなるはずだ。この本を持っていようかなあーという選択は人生に置いて、大切な決断だったのだが、置き場所に困らない以上、残すことになる。

でも、こんな風に便利になって、効率性が高まった先、利便性を突き詰めた先に何があるんだろう。とふと思ったりする。世のテクノロジーの進化はまだまだ止まらないと思うのだけど、テクノロジーを使うこちらの脳のスペックは変わらないので、その分なにか考える時間でも増えるのだろうか。
その進化によって、我々はどんな選択が残って、何を感じる必要があるのか。そしてそれはHAPPYなのか。

そんなことを考えてると、ビジネス書しか読まないビジネスマンなんかを想起しちゃう。彼らも定方向の進化形態である。
小説とか自然科学の本とかは、時間のムダ。読むはビジネス書のみ。右手にフレームワークで左手に論理である。それらに掛かれば無駄は削ぎ落とされ、重複は削除され、情感は制御される。そこから出てくるモノは決まった形の決まったアウトプットだ。
そういうアウトプットって、ひとつひとつの物事を良く見てるし、納得感もあるのだけど、それだけじゃないだろう。みたいな感慨を抱くことは多い。
平坦で奥行きが無いとまでは言わないけど、どっかで聞いたなあ。みたいな既視感。長くアウトプットを見続けると、もうそれはいいから部屋に帰ってゆっくり風呂でも入りたいなあという感じがしたりする。

ただ最近はテクノロジーを使った楽しいサービスも増えているのを紹介したい。
例えばairbnbやら、クラウドワークスとか、僕好みのサービスがいくつか出てきたのでそれは純粋に嬉しいし、サービスの手触りとして悪くないように思う。
まだまだ問題だらけだけども、便利って方向の進化じゃなくて、何か新しい体験みたいな感じで可能性を感じる。

ゲームもマッチョな進化の先に何にも無かったように(MAGがあったのは忘れないが。あれはマッチョイズムが無いと出来上がらないゲームだ)出来れば定方向の進化以外の効率性を度外視した、全然便利じゃないけど、何か楽しいサービスが色々生まれると嬉しい。そんな未来を望みたいなあという。自分もそんな未来に寄与したいなあ。誰も便利にならないけど、何か楽しいサービス作り。ついつい便利なサービスを作ろうとしちゃうんだけどなあ。

雑感‐健康に気を使いすぎるのはあまり意味ない

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最近なんですが、どこに行っても「井上健康意識しすぎ」とかさ「井上さんとメシ屋探すの面倒」みたいなことを言われるのだけど僕は健康なんて特段意識してないので、ちょっとまってくれと言いたいですが相手はただの世間話なんだと思うので、それはスイマセンみたいな顔してるのだけど、本当に健康に気を使い過ぎると人生損するよと僕は思ってるので、ここらで健康思考じゃない表明を。

・均衡
自分の経験として「なんでも比率は大体同じに収束するの法則」というのがあって、健康もその範疇に捉えているのですね。
まず均衡のイメージは、働きアリの法則やらを思い浮かべてもらうと近しいイメージを共有できるかなと思うのだけど、今まで小学校を含む学生時代において、クラスの中の人に感じる印象のタイプ比率って同じ感じだったのですね。
例えば40人のクラスで、内5,6人ぐらい気の合う人が居て、7,8人ぐらい嫌いな人が居て、あとは普通であって。
気の合う友達だけで固まって遊んでても、長く居るとあれこいつ性格悪くね?って思う人も居て(多分相手も僕のことを性格悪いと思ってた気がするけど)性格良いなあと思う人が居て、
どこで何をしてても、大体これぐらいの割合に収束するんですよね。
他もこんな風に捉えてまして。良い音楽も2割ぐらいで、2割が超ダメダメであと普通みたいな感じとか。漫画とか芸人なんかも同じで、ざっくりそんなモノサシを持って世界を規定しようと。出来るだけシンプルに捉えておこうと。

・健康
んで、健康もこんな感じで捉えててですね。
2割の絶対に取るべき栄養素や習慣があって6割のどうでもいい栄養素や習慣があって、2割の絶対やってはいけない習慣とか摂取すべきじゃない何やらがあるんだろうなーというイメージ。
そのため2割はある程度意識的に取っておけば良いだけで、そこはちょっと気を使えば取得や習慣にできるので、そこだけ意識しておけば良くてあとの6割は適当にやれば良いかなと。絶対やっては行けない2割も、多く取っても希釈していければ問題ないと思うので、まあそこも取り過ぎたらヤバいけど、別にそんなに気にするほどでも無いじゃん。
という感じに思ってます。
最近ラーメン2回続けて食ったな。と考えれば、塩分と脂質を過剰摂取してるので、何度か湯豆腐とかササミのヨーグルト和えと野菜でも食っとけ、みたいな感じ。

え?十分気にしすぎですか?そうですか。たださ、メシで同じ味のものが続くのがあまり好まずで。カレー2日連続とか地獄であって、こういうのはついバランス調整してしまうが、以外は特に何もしてない。

・損失
そして健康気にしすぎて何が損するのかというと、
これはクオリティの法則なんかと近しいのだけど、80%とか90%のクオリティを出すのに1時間掛かる制作物があるとして、それを100%にするのって倍ぐらい(なんだったら4倍ぐらい)の時間が掛かるの法則と近しい感じで、そこを100にするには爆裂な時間の投下が必要である。また健康は情報が100揃わないので(これが良いとか悪いとか錯綜しまくる)、いつも必死で情報を取得し続ける必要がある。WHOのブックマークは必須だ。そして得られる価値は投下時間の割りに大したことが無い。
健康というのは人生を楽しむためや何かにコミットする濃度を高める手段として捉えるなら、気を使いすぎると、これ大丈夫かなという気になるストレスと、その周りの人のストレスが降りかかってしまうので、そういうのもあまり気にしすぎるのは本来の健康が良いから毎日楽しいみたいなところから逸脱しちゃうことが多いのでは?と思う次第です。

・肉焼
というわけで、みんな気にせず串かつでも焼き鳥でも誘ってください。
ただ焼き肉屋を嫌がるのは、飲みは話をするのが目的で。なぜ目的の難度をあげるのか?肉を焼くというタスクを同時処理する必要があり、焦げないかどうかの視座は非常に高位であり複雑である。という点からの拒否であります。(一緒に肉を焼くという共同作業を通じてもっと仲良くなれるとか言う人には、それが鍋じゃないと行けない理由を一緒に考えることにしてます)
というわけで焼き肉拒否は決して健康のためではありませんので、何卒ご理解いただけますよう。

雑感-学びに関して

人が何かをきちんと学ぶには、ある程度痛みを伴う必要があると最近考えるようになった。
日々生活をしてて、毎日こんなに色々あるのだなあ(棒)というほどに色々な出来事がある。精神的にググっと来たり、肉体的にググっと来たり様々なグラデーションや強度で問題と痛みは存在する。そしてその出来事の中で、大体が強い痛みがあることから何かの気づきを得てる気がする。

そんな痛みの中で、最近学んだことは「大事なことは誰も知らない」である。
文字にするとシンプルだし何ら捻り無しなんだけど、いろんな末に感じたことであり、なかなかテキストで書くとふーんという感じで。難しいところではありますが。まあ痛みの末に得た学びだ。

でもですね。こう自分で痛みこそ学びと思ってはきてるのだけど、あわせて僕はドイツのオットー・ビスマルクが言ったことを思い出す。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ってやつですね。
この格言に習えば、その思いは、おもいっきりの愚者思考でありまして、井上残念な気づきでありますが。
歴史から学んだだけで人はそのリスクを回避出来るのかなかなかに謎であります。

本当に人は他者の経験によって学べるのか?非常に難しい問題で、他人の失敗でも歴史的大失敗でも誰かの不倫でもそれらのディティールをいかに細かく説明され、人からの失敗の変遷を聞かせれても、それによって自分は同じ過ちをしないだなんて言い切れない。枝は違えど幹は同じみたいなこともありそうである。
そんなことを思ってたので、ブログを書くにあたり、ビスマルクさんの格言を細かく調べてみると、
正確なテキストはこうであった。
「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」
これなら分かる。

それであればそうだと思う。出来るだけ人の経験から学ぼうとし。学ぶことを辞めないのだけど、それでも痛みは避けられないというのが真実なのかもしれない。
そして我々はそれで手痛い失敗をしてから、ようやく「そうだ、これはあれと同じなんだ」とそれらの失敗を自分の血肉として経験に置換できるのかもしないという気がする。
あと、そういう痛みを受けると同じカテゴリに属する経験についての理解を深め、その後も同じパターンの失敗は認識できることが増えていくようになる。以前までは何ら気付きを得なかった事象や出来事からも何かを読み取れるようになったりする。そういう方法であれば他者の経験からも学ぶことは可能だ。

あとさ、思うのは、痛みによって学ぶ。というのは、別の意味で言えば、痛みって抜けると、もう痛くないんだよね。ってのも真実である。
今になってみるとみたいな。
そしてある種の痛みはその後もずっと記憶に残るので、それら含めて経験となる。いやはや大変である。

雑感-予定調和の飲み会

年末だし何か年末っぽく今年気づいたことでも。

僕の人生のベクトルとして予定調和を避けるというのが、ある。
この会議は予定調和になりそうだなと思えば、出ないって選択肢を取れないか探るし、この仕事は誰でも出来るな(予定調和)と思ったら誰かに振れないか必死で適任者を探す(いつもスイマセン)、それは友達とご飯とかもそうだったりする。

そして最近の多くの飲み会が予定調和になりつつあるな。という思いがある。
予定調和とは何か?先が読めることである。先が読めることによって巻き起こる退屈というわれの感情の想起までをセットで予定調和と呼ぶ。
僕は常に予定調和に抗おうと、時には暴論を展開してみたり、時には全然そんなこと思ってないのに逆の意見から論理を構築し論陣を張ったり、全然似てないのに「キミって斎藤佑樹に似てる」とか言ってみたりして、出来るだけ小さな熱を生もうとする。そしてその熱をもっと大きな熱量に変えるために色んな手法やレトリックを使いフルパワーでアジテートする。それが飲み会の僕の役割だと。そう思ってた。

テレビを見ながらの飲み会には絶対参加しないし、なぜかみんながテレビを見始めたら(何度消しても付けられたら)散歩の振りして(拗ねて)帰ったりしてた。
一番キライなモノはみんなでテレビを見ながら超ありきたりな論しか出ない(最近○○面白くないよねー。同じパターンばっかり。ぐらいの論=面白くない理由がない、なぜ同じパターンの笑いだとダメなのかという理由が無い)飲み会である。それをするぐらいなら、1時間説教されながら飲んでる方がまだ楽しい。(この人から見たら俺はそんな風にダメに見えるのかというのが分かるので)

ただそれが最近上手く行かない。予定調和が打破できず、なぜか毎度場や話題が予定調和に収束する。
着火間違いないと思った案件がボヤだったり、エクスプロージョンと呟いたら屁だったりとか、全然予定的に話題を跳ねさせることが出来ない。

困ったなーと思ってたんだけど、最近気付いたのは自分の経験値が増えてきて、ある程度の意見は以前聞いたな-という感じになってると思ってたら、年齢が上がるごとで共通の趣味やバックグラウンドにしてるモノが見えにくくなるので、何を語れば良いのか分からなくなる。え?仕事の話好きじゃないんっすか。みたいな。
だもんで、みんなに喋って貰おうとしてきて色々と場に話題を提供してきたのが今までなら(みんな大体自分の話をしたいので)これからは、場に収束不能な話題&相手の知識を要しないお題を投下するという技を磨くのが良いと思った。

俺が先日電車で考えてたのは「どこからが科学でどこからが宗教なのか?という実証性という観点に基づいた科学の分水嶺」であり、自分の中である程度結論が出た。昨日風呂で考えてたのは「なぜ同じく脳を使うのに、仕事だと疲れて、遊びだと疲れないのか?(俺は18時間ゲームは出来るけど、18時間仕事はキツイ)仕事を遊びのようにすることは出来るのか?遊びと仕事の違いは何か?」ってのを考えてた。これも結論出た。でも結論ありきだと盛り上がらないのかもしれないな。
俺も結論出てない話題にしたい、そんな話題を投下したら盛り上がるのだろうか。一度やってみよう。

ただこういう事を書いてて思うのだけど、俺としては予定調和云々より、実は語り部を求めているだけなのかもしれないという気がする、
語れる人とやっぱり語りたいんですよね。
最近大変っすよねーとか寒いっすねーとかわざわざ喋りたくないんだよねー。んでありきたりな(頑張ろうとか)みたいな結論に落ち着かせたくもないし。
でもさ、なに語りたいんだろうって言えばゲームなんだけど、語れる人がまわりに居ないし。うーん。宗教(仏教)かストレス論とかが自分トレンドだが、そんなお題の飲み会って何か危ないだけになりそうだし。難しいところだ。

雑感-自己啓発の矛盾と効用

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自己啓発についても先日軽くポストしてしまったので、それももう少し考えたいなと。
「自己啓発の矛盾と効用」について。

いやさ、啓発系も矛盾も大いにあるんだけども、効用もあるんですよ。わりと。という話。
(前回は否定しまくった感じがしまして)

まず自己啓発のテーゼはシンプルだ「目標を設定せよ」「思考は現実化する」「だれでも成功する」亜流はあるのかもしれないが、大枠の基本構造はそうである。
ただこれは変な話にも聞こえる。誰でも成功するチャンスがあるというのは、同じ割合で誰もが失敗する可能性もあるということに他ならない。ベンジャミン・フランクリンの「フランクリン自伝」を紐とくまでも無いが、
「1人の勝者は、無数の敗者の累々たる死体の山の上に築かれる。誰でも成功できるということは、誰でも破滅できるということとほぼ同義だ」と看破した。
サッカー日本代表のピッチに立てる数も、紅白歌合戦に出れる人数も、増えてはいないはずだ(いや知らないんだけど、多分w)もっと言えば、日本の富の総量は増えているのだろうか?増えてるとして、それはどれぐらい若者に分配されるんだろう?

もちろん可能性として「思考は現実化する」という仮説が正しいとして、思考の思い込みが足りなかったから失敗したという線もある。毎日手帳を眺めるべきだったのかもしれない。勝間和代のように1日3時間睡眠で本1冊を30分で読んだりして、ハイテクな自転車と変なメットを被ってGPSを駆使して移動しつつ、もっと自分をグーグル化する必要があったのかもしれない。それをやってないからダメだったかもしれない。

それでも言えることは「目標を設定する」ということは「目標が達成できない」可能性を内包しているのは間違いない。
全員がサッカー日本代表のピッチに立つことは出来ない。
その目標は一体何人が叶うモノなのか?それは思考と目標設定の厳しさに規定されるもので、性差も人種も土地も資産も身長も顔も全ての環境や変数をナシに出来るモノなのかと。
このへんが自己啓発の難しさで、啓発した自分をもって思考を具体的にしたところで達したい目標の因果関係が見えにくいことだ。そもそも因果関係なんてあるようで無かったりする。成功した人にインタビューして、願いが叶うと思ってると叶いましたというかもしれないが、同じように失敗した人に聞けば叶うと思ってキャッシュ入れましたが、全部溶かしましたってのは同じ分量出てくるはずだ。

僕は思うのだけど、啓発ばかりやってる人を見てて思うのが、全体的に仕事の能力が低いような気がするのだ。話してて物腰は柔らかいし、言う事も立派だし、対応も親切で会話の切り返しも早くて面白い人が多いのだけど、あれ?なんでこんないい加減なんだ?というコトが多い。
そんな姿を見てると、自己を啓発をする前に、思考は現実化するー!という前に、目の前の仕事を徹底的に取り組んだほうがいいんじゃないかなと思ったりもする。
その繰り返しこそが思考が現実化する道のようであり、そういう繰り返しが全体の質を上げ、何らかの頂きでも目標なんかに運が良ければ達するんじゃないのかと。
思考がーの前に目の前のユーザーがどうすれば楽しいのか?を考える必要があるように思う。まあそれでも失敗することもあるとは思う。だけど僕は思うのだけど、そもそも別に目標に達成しなくてもいいのだ。目標に到達することが目的ではない、なぜなら目標に達しても長くアンチクライマックスな日々は続くのである。本来目的にすべきは、その一連のサイクルが楽しいのかどうかだ。目の前のタスクを手にとってこなすことに喜びを感じるようになれるかどうか。それであれば、達成しなくても手を尽くしたという実感が残る。尽くすべき力は尽くしたと。食いしばるべきは食いしばったなと。まあやるだけやったじゃないか。それで外せば、きちんと謝って、再チャレンジにアタックすればいいだけだ。どう考えても大きく力をつけてるはずだ。

最後にまとめると自己啓発の効用は、啓発する無駄に気づけることである。これ何冊読んでも無駄なんじゃないか?という効用である。
毎日の仕事を徹底的に高速でやり切る、その短期的な視点と、超たまに長期的なレンジで物事を考える。その繰り返しこそ、日々の質をあげる。そして手を尽くして仕事してると何より毎日のご飯が美味しいのだ。
ってなわけで自己啓発オススメ!