雑感-森の生活と音楽と

森の生活を初めてはや2ヶ月。
2日に一度ぐらいは散歩で森に入ってるのだけども、今までの生活のどれとも違う感覚がある。(それが知りたいから転々としてるのだけど)
初めての森なので、森に合う音楽も考えてみた、あわせて。

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朝の森はどこまでも清々しい。暖かい光が全てに注がれ、全てが祝福されてるように太陽の光を受け、反射し、全てが輝いてるように見える。とても幻想的だ。
小鳥たちの声があたりに反射して八方から聞こえてくる。どこに鳥が居るか分からないが、たくさんのいろんなよく通る声で好き好きに鳴いてる。
そして木々は生命力に溢れて、力強い。空気は冷たくキリッとしてて、とても気持ちが良い。

 

 


それに合うのは彼の音楽に思う。
高木正勝の音楽は、なんだろうな。ノイズのようだが、日常にある音を彼の仕組みの中に取り入れ、全ては彼のフィルターを通じて調和される。それは精緻な感情をもった音楽のように思う。とても透き通った音だ。そこに技巧性や虚飾性はない。それが有機的な朝の森にとても合った音楽に思う。朝の森の親密さを彼の音楽がマイペースにこつこつと積み重ねてくれる。ああ、認めよう。とても気持ちがいいと。

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ただ夜になると様相が全く違う。暗闇で1メートル先が見えなくなる。手を伸ばせば手が消えてしまうんじゃないかなと思うぐらいの暗闇である。
今まで生きてきてこのような暗闇に出会ったことはなかった。葉に一分の隙もなく遮られ光は一切入ってこない。そして葉と葉がこすれるカサカサという音だけがあたりに響く。誰かに見られてるような気がしてくる。この恐怖は霊的なモノでも暴力的な物でもなく、暗闇の恐怖という人間が感じる根源的な恐怖のように思う。そのため夕方までが森にいる限度である、夜は無理だ。夕方から徐々に空気が重く、冷ややかになり、暗闇の濃度が段々と深くなっていく。不穏な感じがあたりを包む。

 

Last Flowersは夕暮れの森の音楽に思う。
絶望の音楽だ。ただそこには間違いなく救いがある。今から夜が来るんだけど、とてもさ怖いし、危ないんだけどさ、多分、いやきっとさ、光に包まれた朝も来るからよ!みたいな音楽だ。
ただそのアコースティックギターが突っ込んでくるまでに怖くて山から降りてしまってばかりだが。救いまで行けない。

もし森の怖さというのを知らないのであれば、一度夜の森に入ってみると良いと思う。
暗闇にも色んな種類の暗闇があるのだなと感じると思う。

仕事-25歳の夢

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25歳の自分が夢の環境として考えてたことは「仕事が出来る人と仕事をしたい」であった。
それに至る理由を書くと、色んなことを書く必要もあるので動機の説明は置いとくとして、25歳の頃には30歳になったら絶対に優秀な人と仕事が出来る環境にしたいと思ってた。

なぜ優秀な人と仕事をしたいと思ってたかいうと、理解の遅い人と話してるのが億劫だったからだ。
面倒臭くて、そんな空気を相手も気付くし全然良いコミュニケーションにならず。これはどちらのためにもならないなと感じてた。
もっと言えば、知的好奇心でも向上心でもなんでも良いのだけど、そういう感覚の無い人との話は、とても退屈であり、どこかで聞いたことある話であり、話す億劫さがどんどんエスカレートしてしまうことにあった。

ただ33歳の今思うのは「優秀な人は何人かで良いんだけど、目的が同じ人と仕事をしたい」という思いが強い。
理解が遅くてもきちんと理解をしようとする、出来ないことは家に帰ってからでも理解しようとする、分からないところを聞く、それだけで十分である。
いやそもそも優秀な人は優秀なのであれば、頑張ってるけど出来ない人をフォローしてあげてよ。と思う(俺は優秀じゃないので出来ないんだけど)

同じ目的をもって仕事が出来る環境は何事にも変え難い環境のように思う。
そのために全ての仕組みをそのように組み立てたい。

Tips-良い文章の書き方

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こんな感じで日々文章を書いてるが、改めて自分の文章を見直すと、ガックリ来ることは多い。
日々、まともな文章が書きたいなあという想いである。
自分の下手な部分を明らかにするのは、避けたいところであり(そうPDCAを回しているのだ)
どんな文章が良い文章なのか考えてみる。

良い文章とは、

「読ませる文章」

と考えてる。
構造も用法も気になるところはあっても、グイグイ前々へと読ませる文章というのはとても良い文章に思う。
彼は一体なにを語ろうとしてるのか?伝わり、そして最後まで読ませることに成功してるのであれば、文章の目的を果たしてる。
そりゃ読ませても文章として理屈は破綻してたり、少し視野が狭いかなと思わないでもないが、それとこれを分けるとすれば、読ませたいことを読ませるが良い文章と考える。

というわけで、どうすれば読ませる文章になるのだろう?ということを何度も考えてきて、今思うところをまとめてみる。

1,書き過ぎない文章
これは長く文章を書いてると分かるのだけど、自分の意図をきちんと伝えたくてつい補完的に文章を埋めてしまうことがあり、とても冗長な文章になることが多い。
それによって読ませるに大事な空白や間の多くを損なうことになり、読ませない文章になる。ある程度捨てるという考えが大事。既に3年ぐらいこれにチャレンジしてるが、効果が出てるのかとても謎である。まあ文章は短くなったが、試みはまだ継続中であり、日々書き過ぎないようにと注意してる。

2,テンポのある文章
説明が難しいのだけど、文と文とのつなぎ方というか(接続詞ではなくて)送り方というか、リズムのある文章というか、そういう文章はとても読みやすく、読ませる。これは出来る人には出来るし、出来ない人には出来ないの領域に思う。著名のブロガーさんの多くが持ってたりする。

3,威張らない文章
何というか背伸びした文章というか、それが透けて見える文章は、別の感情を想起し(この言葉どんな意味で使ってんだろうな?誰かに当てた自己ブランディング的な文章かしらんとか)読んでると疲れる。そんな修飾は無しに自分が伝えたいことを自分が持ってる言葉で自分のフォームできちんと伝えるのが大事に思う。あとさ、この単語を使われると辛いというのもあって、文学系で言えば「コンテクスト(文脈)」とかさ@真顔で言われるとクル物がある・・・。ビジネスで言えば、なんだろうな。でもビジネスは何だかカワイイのだけど「ディシジョン(決定)」とか「イシュー(課題)」とか、ええっと(まわりに使ってる人はいたら怖いが聞いたことはない)。いや別にね説明で抽象化する際に横文字を使うのはそれが概念だと伝えるために有効な手段であり、いいのだけど、以外の部分で(概念として使わないのに、んで流れも無いのに)出てくると、背伸び感満載であり盗んだバイクであり、ライムがリリックでフレーバーであり、駆けつけのオンザロックであります。とはいえ俺も昔爆裂に使ってたなと。昔のそれは「コアコンピタンス」だと思う。いま書いてもキツイ。10年前言ってたなあ。コアコンピタンスって、辛いなあ。コアコンピタンス、語感から感じるところありますよね、コアコンピタンス。

というのが出来ているのが読ませる文章と考えてる。
やはり一番大事なことは、自分が伝えたいことがあり、それを伝えようという意思である。
よくあるのは構造もしっかりしてて、文章も整合されてて、理屈も破綻無いのだけど、退屈な文章というのは世の中に大量にある。

こういうのは音楽でも同じで、とても洗練されてて高いテクニックを持ってるのだけど、この人何が言いたいんだろう?みたいな音楽というのがあり、それは最終的に誰にも何も伝わらないように思う。アートでもそうだし、もしかすると仕事でもそうかもしれない。この人、知識もあるし、技術も経験もあるんだけど、一体なにがしたいのだろう?というような感じ。あるのかな。わかんないけど。

まあ結びとしては、40歳になるまでにはまともな文章が書けるようになりたいなと。いうところだ。目標があるのは自分としても望むところだが、遠い目標であり、なかなか大変である。20代の頃もそう言ってた気がするので、早く人間になりたいなあの心境であります。本ブログでもコツコツ涙ぐましい努力を続けていきますので、凡才の軌跡をご確認いただければ。よろしくどうぞ。

Tips-美味しい野菜の食べ方

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サラダメインの写真が無くて、あれだが、だいたい丼一杯は野菜を食べる。
写真の上にある丼サラダが1日ぐらいの量である。なぜこんなにサラダを食うのか?シンプルに美味しいからだと思う。健康のためではない。

昔、サラダのどこが美味いんだろう?なんて思ってたのだけど、なんてことない、きちんとしたサラダの調理を知らなかったように思う。
サラダの美味しい食べ方はとてもシンプルだ。
・まともな野菜を買う。
・まともなオイルを使う。
・ふたつが調和することを祈る。

以上。

どれが欠けてもダメで、そこだけを注視せよ。
上記ふたつのまとも性については各自の見解に委ねるとして、ふたつが調和するためには。
事前に野菜をしっかりと洗って、きちんと水気を切るというのが大事だ。水気が残ったサラダはオイルと調和しない。
下手なドレッシングほどサラダを台無しにするものはないので、良いオイルと塩(荒すぎず細かすぎず)で十分。
野菜それぞれの旨さを引き出すドレッシングを作る(それは野菜によっても変わる)のはわりと至難の技に思う。
甘い系、酸っぱい系の3パターンドレッシングもあわせてあると、人生は乗りきれるはず。
サラダの作り方を覚えることはうまく人生をサバイブするコツだ。みたいな。
とはいえ、オイルとサラダをまともにするだけでとても値が張るのだけども。お金持ちになったら自分にあったオイルを探してみると良いと思います。

日々-感覚的なことを教えるということ

日々僕がモノを教えたりすることも増えてきてるのだけど、教えるのはとても苦手である。
まあ技術的なことを教えるのも苦手だが、特に感覚的なことを教えるのは難しい。
僕が使うひとつひとつの言語に付与した意味を相手と共有するのも難しければ、その理解の差分を見極めるのも難しい。
何を前提として説明すべきか、相手の経験値から何を知らないのか。そこらの判定が難しい(教えるのが上手い人は頭からやる)

そんなことを考えてると、小澤征爾さんの指揮者を教えてる様子があった。

小澤征爾さんは確か毎年(近年は体調不良もありしてないと思ったが去年だこれ)若い音楽家の教育のために活動されてる。その様子を読んだことがあり、いつか機会があれば、教育現場を見てみたいなあと思っていた。そして小澤さんの動画を探してて見つけた。
動画はロームミュージックファンデーション音楽セミナー2012指揮者クラスの模様なんだけども、感覚的な部分はあくまで相手の感受性に依る部分で実際にやってみて、見せてとやっているようだ。
とても面白い。

そういえば、ある歌手が「なぜそんなに上手く歌えるのですか?」という問いに対して
Some people can sing,others cant`t
と答えている。歌うことが出来る人がいれば、出来ない人もいる。なかなか教育に当たりとても冷たい言葉にも思うのだけど、出来ない人には一生出来ない。
ただそれでも、出来るだけのことは考えて取り組みたいなと思う、僕は天才でも何でも無いくせに感覚的なことを感覚のままに話してしまうので、実際にやってみてを増やすのが良いのかもしれない。できるだけ教えるということに対しては自覚的でありたい。責任ではなくて、役割のように思う。おとなになってあまり人からモノを教わってこなかったが実感として。

日々-体調

生活において、何を置いても体調管理に気をつけてるが、何年かぶりに大きく体調落とす。
んで1週間経つも戻らず。熱などには強いのだけど内面的な不良にはとても弱い。パフォーマンス激減で情けない限りだ、

が体調が悪いぐらいで、なんとなく仕事量を調整したり、家での仕事に切り替えられたりするという自分は楽な環境であり、みんなのフォローがあってこそなんだろうなという気がする。これが普通のサラリーマンの責任者であればちょっと1週間休みます!はなかなか難しいのではないかと思う。
そして今、この間もみんなはセコセコ新サービスのリリースを間に合わせるために頑張ってる。うー情けなや。

今のルーティンは、
起き上がる、溜まった仕事をする、寝る。ちょっとマシになる。起き上がる、溜まった仕事をする。という繰り返し。
いつになったら復調するのか。病院が嫌いというのもあって、なかなか上がらず。そして誰かに体調が悪いというのもイヤでつい仕事を受けてしまう。
誰かに言うのはイヤとか言いながらブログで体調悪いって書いてるのは最高のアピールなんじゃね?と言われると返す言葉も無いが、今書けるエントリーといえばこれぐらいだもんで(散歩すら出てない)取り急ぎの近況。溜まった仕事は随時やっていきますので、暫し。

日々-続きの続き

家の裏手、先日のエントリーのサクラの森へ続く道。
出口が見えない。ひたすら長い。

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昨日まで東京だったのだけど、今回は酒席もお断りして、パン屋でパンを買って早めにホテルに戻り本を読みながらパンを食べてた。
ノーパソが壊れて、仕事が出来ない環境も良い面があるなと(普通なら仕事をしてしまう)
珍しくチェーホフの後期の作品を読んでたのだけど、後期の作品はとても練れていて、それでいてとても悲しく。考えさせる作品が多い。
これらの作品も100年以上前に書かれた作品だと思うと考えるところがある。
何歳の時に彼はこれを書いたのだろう?と考えながら読んでいたのだけども、つくづくすごい作家だなと思う。
カポーティが冷血によってひとつの境地に行った(悪く言えばあっち側に行っちゃった)としたらチェーホフもサハリンで行っちゃった作家とも言える。
もっとこっち側で踏ん張って欲しかったなあと思うところもあるのだけど、読んでると、まあ行っちゃうしかなかったのかもしれない。という気がする。
ここらはまだまだ読みたい領域が残っており、もっと突っ込んでいきたいところだ。今の新規事業でも圧倒的強度と速度で立ち上げると同時に(フルパワーで)、このような時間もせっせと確保する必要はある。もう2年ぐらい真剣に小説や好きな領域を掘り下げれてないので、成果が出れば早めに。いい加減ビジネス書飽きた。あまり時間は無いよなと。

Tips-お酒との上手な付き合い方を本気で考えて実践してみた

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日々お酒の恩恵を受けることは多い。
仕事が遅くまで続いて緊張状態にあって眠れないなというときにアルコールを摂取しつつ、緩い音楽でもくだらないバラエティでもスポーツニュースでも見てれば緊張が解けゆっくり寝れることは多い。
京都に住んでる身として川沿いの店でツマミをつつきながら日本酒を飲んでると、これだよコレ感はある。
酒席も毎度ぼちぼち楽しい。盛り上がっていろんな話をしてると楽しいなあという感じである。

そのようなメリットを感じると同時に、最近はデメリットも多く感じるようになってきた。
まずいちばんは翌日の虚脱感である。
僕は元々毎日楽しいし、明日なにやろっかなーっと思ってる脳天気なタイプなので、このテンション上がらないのが明らかにマイナスである。
お酒で躁な状況を大きく作ってしまうので、翌日の反動な鬱ターンがとても鬱陶しい

そのような状況だもんで、メリットだけを享受しつつ、デメリットを排除できないだろうか?といろんなチャレンジをやってみた。

・飲んだ翌日はお酒を飲まない。全体酒量を減らす
長期的に取り組んだが、結論としては飲まない翌日は元気だし、飲んだ翌日は落ちる。

・落ちないお酒の量を探る。
家飲み限定なんだけども(外だと結構な量を飲んでも落ちない)
以前まで1日アルコール換算でビール6本ぐらいとして、それが今やビール2本程度まで落としたけど、翌日落ちる。

・飲む日はいつもより多く運動する
気が晴れるとか、何か良い効果あるかなと思ったが、一切無い。

・お酒の途中で水を1リットルぐらい飲む。
苦しい。これでちんたらやってると酔いがさめ、逆に寝れないということもあり。こんなに不快な時間(翌日も寝不足)と飲んで3時間気持よくなるは等価なのかと自問。

酒のセーブは何度も特訓して本当にうまくなったのでこれぐらいの酒量ぐらい続けていきたいところだが。
ダメな酒飲みの皆さんには分かっていただけると思うが、お酒を断固辞めるというのは頑張れば出来るのだがお酒を適度にセーブするというのはとても難しい。今日は2本で辞めとこかなといえる酒飲みがどれぐらい居るか。
小説家のレイモンド・カーヴァーは急性アルコール中毒で4回入院。妻と別居し、その後にお酒を断ったのだけど「自分を一番褒めるとすればお酒を辞めたことだ」と述懐したという。

でも僕らはお酒=人生の楽しみという価値観に侵されてるのかもしれない。毎日何度も流されるCMに踊らされてるだけで、お酒なんて要らない可能性もある。やれ仕事終わって今日の一杯、休日はBBQで旅行で一杯、なんだった昼からも飲めみたいな感じの煽りはとても強い。お酒は百薬の長と言うのだけど、改めてテンションの前借りのような感じがする。脳の理性が緩むあの感じは依存の強いドラッグのようにも思える。次の一手は辞めるしかないのか、果たして。

日々-一杯のスープのため

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虫入るというデメリットも多い縁側生活だが、メリットは天日干しと予想。早く天日干しをしたいのだが、また週末に掛けて東京(先週もまる二日現場で何か今月は終わったつもりだったが、なんと終わってなかったのだ)
あわせて別の新サービス立ち上げ。でもまあ慣れたもんで、タスクぐらい捌いてあげましょうの心境。
イチイチ忙しいぐらいでバタバタイライラしちゃうのは、ちょっと見苦しい(めっちゃバタバタイライラしてるけど)
というわけで、忙しいがデフォルトなんで、せっついても仕方ないので、天日干しをば。
天日干しの干からびて濃縮された野菜の旨味はスゴイモノで、何に使っても旨い。
旨さが濃縮され醸成され、倍増する。

たださ犬が居ると天日干しはとても難度の高い作業である。
気がついて食われな日々。

というわけで、アクビしてる最中にセット完了。
食おうとしたらタライ落とし的な罰にもなり得る天日干しシステムの構築。

とはいえ、家は牧歌なノリ(夜中まで起きてる人が居ないような地域)で仕事は激烈という何ともな日々。コントラストというかレンジはとても大きい生活。良いことなのか悪いことなのか、それすらも分からないが、まあ緩くやっていきますよと。

雑感-貧乏という心的状況について

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人と話してて、お金を持たない相手への蔑視やら貧乏への拒絶やら、それらの反応に出会うことは多い。
まあ結婚においてお金というのは重要視されるので、それらはちと置いといて、自分個人が貧乏というのは、本当にそこまでイヤなものであり、価値の無いものなんだろうか?というのは、よくよく考えてみたい。そんなにイヤですかね?貧乏。

とはいえエグゼクティブに属する立場の人は成果を出すという役目があったりするので、それらは度外、また扶養を多くされてる方も諸事情あると思うので、少し本議論から外してみよう。
以外は金持ちである必要と、金持ちである幸せ相関というのは、よくよく考える必要がある。

先日、30歳前後の女の子と話してて、お金が欲しいみたいな話になったんだけど、僕としては単純な疑問として「なんでお金欲しいの?」と聞いたところ、欲しいに決まってるという回答があったので、何か欲しいモノあるの?と聞くと、めちゃくちゃある。かばんも欲しいし、旅行に行きたい。ということだった。
そこで僕は「今の幸せが10として、毎月お金を10万使うことでその幸せの値を15にできる?」と聞いたところ「余裕で出来る!毎月5万分服を買って、2万ご飯食べに行って、3万旅行資金に溜めて、半年に一回旅行する」といった。

その考えの良し悪しを判断するつもりは全然無いのだけども(それは良くも悪くもひとつの考え方に思う)本当にそれはお金じゃないと解決できない問題なんだろうか?なと疑問に思う。どうしてもそれはお金じゃないと手に入らないものであれば、仕方ない。今の状況を蔑んで、その状況を追い求めるしかない。ただそれは貨幣を介する事でしか獲得できない何かなんだろうか?

でもさ、正直いうと貧乏というのはとても楽しい心的状況に思うのだ。
うわー買えねええ!くっそー!でも俺はこうやって楽しめたああ!ってなるととても自分としての能力を褒めたくなる。
僕の趣味は古本めぐりなので、これはお金持ちとか貧乏とか関係ない遊びである。手に入れることが目的じゃなくて手に入れるプロセスを楽しむものだ。
ここで変なエスタブリッシュなイギリスの紳士が、井上くん、それらの本全部買ってあげるよ。とかなると、ケッってなる、何もわかってない。
この本に500円は出せないな。とかこの本が1000円とかの作者と本の価値と俺の考え方のバランスを見るのが楽しい。それを上回る本を獲得できると嬉しすぎるという感じで1日ニコニコしてたりする。
それはお金の多寡というよりは、自分の想像力の話に思うのだ、

そして僕は思うのだけども、金持ちとか貧乏よりも、僕は想像力が無い人がとても貧しい人に感じてしまう。蔑視すべき(って別にしないけどさ)対象はそういう人のような気がする。何ら想像も出来ず、話はすべてどこかで聞いたことあるような話で、話してて退屈な人こそ、凄く貧乏に感じる。それよりも、ササヤカなことで楽しんだり、面白みを見つけたり、話してて楽しい人の方がとても豊かなような気がするのだけども。そういえば僕はまじめにコツコツと長く仕事をしてきた人の話を聞くのが好きだ。
とはいえ、僕は上述した責任者という立場なので、徹底的に利益に拘るんだけどさあ。来期売上5億!とか言っちゃってるので、超お金主義だけども。もう片方ではできるだけいろんなことを想像しながら生きていきたいなと。ゆっくり本を読みたいなと。