日々−おもしろきこともなき飲みをおもしろく

223ー

孫聞きではあるが、ウディー・アレンのアニー・ホールという映画で
「人生は、ひどいか、悲惨か。そのふたつのうちどちらかだ」とセリフがあるという。

まあそういわれたら、そうかもなあ。と思わないこともないけれど
僕としてはひどいながらも、悲惨じゃなかった事が多い人生を生きたい。

そこで悲惨になりがちなモノの代表例が会社飲み会である。
誰か1人が(大体先輩)話し始めて、愚痴のような、説教のような話を聞く時間というのがまさに悲惨な時間だ。
そして、気づけば前回も聞いたような話が展開され、そして前回と同じ結論がそこに展開され、提示される。
そこに「自慢話」と「過去の苦労」というエッセンスを投下される。
これを悲惨と言わずに、何を悲惨という。

この悲惨さに抗うために、僕は飲み会の開催回数を制限し(頻度が多くなると同じ話になるから)、飲み会希望者だけを限定し、前回の座組みと違うメンツで構成して、説教めいたことと自慢めいたことを(たぶん)封殺してきた。

ただ悲惨さの芽を摘んでも「悲惨では無い飲み会」にはならない。
NOをいくつ並べてもYESにはならないように。苦手な異性の苦手の感じてしまう箇所を修正しても相手を好きにならないように、必要なのは「悲惨の理由」ではなく「ひどくない飲み」の定義である。

まずひどくない飲みの定義ひとつめは、
・相手の喋りたい話をする
である。

例えば「成長意欲の高い若手があつまる会」なら
「成長の定義」
だったり、
「婚活」しているメンバーなら
「狙うべき異性」みたいなことを話していれば、仮説提案力の能力の高低で盛り上がりは変動する。

ふたつめは、
・予定調和でまとめない。

ここらは賛否分かれるが、
ひどくないどころか、実りも欲しいという欲もあり、いくつかのリスクを取って、場や内面に踏み込みつつ、そして誰も傷つけないように注意しないように、コードギリギリにスリルのあるトークを展開したい。もちろん踏み込みすぎて、生々しい話になることもあって、そういう後悔は翌日かなりすることになるが、それよりも欲するのが実りである。

そのふたつが目下ひどくない飲みのための取り組みである。
「お題」の精度と、「仮説」の広がりがコツで、今後もそこにはチャレンジしていきたい。

ここからは余談だが、
日常的にそういうチャレンジしていたら、先日、後輩と先輩の何人かから、「井上さんって話の主導権取りたがりですよね」と。言われる。
「場のグリップ握りたい人っすよねー」「井上CEOから井上グリッパーに変えたらどうっすかね?」と言われる

その言われようは素人MCである。
「この話題に、○○さん、何か言いたいエピソードありましたよね?」って、アメトークならぬ、イノトークである。
「○○さん、なんかないの?△△やってて腹立つ瞬間とか?」
素人MC・・・。それは細かいことに気づかない雨上がり宮迫であり、毒舌のない有吉であり、ギターの無いフットボール後藤である。
もしくはオタクじゃない南海キャンディーズの山里であり、顔の小さいトミーズ雅である。

飲みは悲惨ではないが、他者評価が思いっきり悲惨という結末を迎えそうだがチャレンジの歩みは止めないつもりだ。
チャレンジの軌跡を見たい人は5000円札握りしめて、お気軽に井上までお問い合わせください。