
そういえば、3年前に「楽しいってなんだっけ?」とライトなエントリーを書いた。
そのときは、そこまで深く考えずに文章を書いたのだけど、最近は「楽しい」がとても大事なものになってきたと思う。
パンデミックの状況で、多くの人が「自分が本当に大事なことってなんだろう?」と自問したはずで、その中でも「自分の楽しい」をひとりひとりが考えて、追求したはずだ。
楽しいとは何か?どうなれば自分は楽しいんだろう?
を追求した文章であります。
1.楽しいとは何か?
中世の世界であれば、封建制のなか宗教や身分や職業が固定化され、ある程度の制限の中で「楽しい」を見つける必要があった。
いや、もしかすると昔の人は生活するに必死で「楽しい」を人生に求めていなかったかもしれない。
ただ今の世界は違う。今は「あなたの楽しいにあわせて人生を過ごしてください」という自由が担保され、各々が好きに「楽しい」を追求することができる。良くも悪くも楽しいは自己責任になった。
「楽しくないの?残念ね」の世界である。
でも多くの人が悩むのは「なにが楽しいだっけ?」である。
そもそも「楽しい」とはいったいなんだろう?
僕らのサービスのミッションに掲げている「毎日の着るを楽しく」とある。
これは、どんな状態のことを言うのだろう?
少し楽しいについて考察をしていきたい。
2.個人的な楽しい体験から楽しいを紐解く
そこで、まずは自分の楽しいを考えてみる。
僕は先日の四国でワーケーションに行った。その合間にサーフィンをすることにした。
なぜサーフィンなのか?
それは僕が一番良くわからないスポーツと思ったからだ。
何をどうすればうまくなるのか、想像がつかない。
どの波が乗れるのか?乗れないのか?パドリングとは何か?波待ちとは何か?
そして自分だけだと全く歯が立たないと思ったので、インストラクターの講習を申し込んで、
四国でインストラクターにサーフィンを教えてもらうことにした。
サーフィン講習の当日、僕は何度もインストラクターから波に乗るタイミングで合図をもらい、何度も失敗する。塩辛い海水を飲み込んで、むせる。次こそ、うまく乗ろうと思って、熱心にインストラクターからバランスのとり方を教わり、重心の置き方を聞き、どこに目線を置くのかの説明を受ける。
失敗と仮説と検証を通じて、たまに波に乗れる。その繰り返しの中、自分の体をどう動かせば良いのか?ボードのどこを持てば良いのか?どのタイミングで波に乗ればよいのか、どこで身体を起こせば良いのか?などを考えることになる。
そして何度かに一度、波の押し出す力にうまく乗れる瞬間がある。なぜうまく乗れたのだろう?
波に乗る、またパドリングをして波に乗れるスポットまで戻るを繰り返す。休みなく。
一通りサーフィンを終え、ホテルに戻るために、車を運転しつつ、ふと海を見る。
さっきサーフィンをした海岸よりも海の波は低いことに気づく。波の高さについて考えたことは初めての経験だった。そういえば誰もサーフィンをしていない。どんな波だとサーフィンってやりやすいんだ?
僕はサーフィンを通じ、波の高さに興味を持った。波の高さと自分の興味が薄く関連づいたように思う。
波とぼく。映画のタイトルのようだ。サーフィンを通じて、海を見る視点が少し変化した。自分の実感としてそう思う。今度サーフィンをすることを想像する。
これが僕の楽しいの説明である。
3.楽しいとは変わること
この「僕の楽しい」を別の切り口で説明しよう。
それは養老孟司さんが勉強について語った本だったかで、「知るというのは「知識」であり、「わかる」というのは自分や人のなにかが「変わる」ことである」と言った。
これが僕の「楽しい」の説明と同義である。
僕は「変わる」ことを通じて、世の中の見る目が代わり、また新たな「知りたい」につながるのが楽しいと感じる。
僕はサーフィンをして、失敗して、必要に駆られ、アドバイスを受け、何度もチャレンジする。それらを経て、自分の何かが変わり、世の中の見方が少し角度で見れるようになった。
音楽が好きな人が、もっとその音楽を深く知りたいと思い、作曲の手法を学ぶことで、聞いていた音楽の理解が変わることも同じだ。
これは村上春樹さんの小説「海辺のカフカ」で、トラックドライバーの星野という粗暴な青年があるキッカケを通じて、クラシックに興味を持ち、ベートーヴェンについて思考するシーンがある、そしてそれを通じて、星野は世の中の感じ方が変わる。それである。
長期的にコンテンツを楽しめる人の多くは、そのような変わる瞬間を体験している。
変わるを通じて、今までと違う何かを知り、まわりの見る目が変わり、またそのなにかについて深く洞察する。今までコンテンツを見て、勝ったとか負けたとか、おもしろいおもしろくないの感想から、なぜこうなるのか?なぜ自分はこう感じるのか?とコンテンツに対し自分のスタンスを明確にし、コンテンツについて問いを立てられることができるようになる。問いをもとにコンテンツを色んな角度から考察することが出来る。そしてその体験を通じて、うまくいけば、まわりの見る目が変わり、まわりから得られるモノが変わる。そして人は、退屈だと思っていた毎日の通勤路でも、家族の会話も、同僚との仕事も、何かが少し変化していることに気づく。
これが僕が追求したい「楽しい」である。
ただこれは誰しもが感じる「楽しい」なんだろうか?
そのような「楽しい」はどうすれば達成できるのだろう?
もう少し考察を続けよう。
4.変わるために必要なこと
まず変わるためには「強く考える体験」が必要である。今までの自分の思考パターンや、いつも使っている思考のフレームワークから、逸脱した思考でモノを考える必要がある。
その思考を通じて、対象に対する問いを立てて、自分と対象との距離や見方が変わる。そのために強く考える体験が必要だ。
ではどうすれば強く考えることが出来るのか?
そこで参考にするはフランスの哲学者ドゥルーズの「人は、考えることを望んでいない」という言葉を拝借したい。人は出来るだけ、考えないですむように、毎日の通勤も出来るだけ、何の刺激も無い選択を選び、いつもなにかについてか考えてるように見えても、ただ自分の思考のパターンから反応しているに過ぎないと言った。
「人が本当に考えるときはただひとつで、強いショックを受け、必要に駆られた時しかない。」と。そして彼は強いショックを受けるために、映画館や美術館に行き、強いショックを受け、思考が強制される瞬間を作るということだ。
この意見を取り入れたい。サーフィンでも、過去僕が観測したことも、大体がそのような体験を経ているように思う。海辺のカフカの星野も、ナカタさんという老人との不思議な体験を経て、強烈なショックを受けていた。
そろそろまとめに向けて、議論を集約していきたい。
5.楽しい日々
まとめると、楽しいというのは、何かが分かり、何かが変わることだ。
その変わることで、世の中の見る目が変わる。
そのためには考えることが必要である。ただ人は考えることを望んでいない。考えるには強いショックが必要であり、ショックが契機で人は何かを考える。そして変わる身構えとなる。
僕らが楽しむために、常に新たな刺激を受けること。出来るだけショックを受ける必要がある。旅行でもいいし、人でもいいし、漫画でもいい。何かにショックを受ける環境に身を置く。
そして僕は昔から、これを仕事においても、そんな環境でワークしたいと思ってきた。
会社のメンバーで、新しい課題にチャレンジする。それを解決するための方法を考える。
解決のための案をみんなで話し合う。関係はどこまでもフラットであり、フェアであり、パーパスドリブンなチームである。
手前味噌だけども、いますごく優秀なメンバーが集まり、その課題に向け、ISSUEを立て、素早く仮説検証が進めている。僕自身ショックが多い日々だけど、新たな知りたいが日常的にある。とても楽しい。これから、この環境をもっともっと良くするのは、経営者の僕のMISSIONとしてチャレンジしていきたい。